渡辺和子さんの著書の一部を紹介します。
毎日生活していく上で「どうして私だけが、こんな損をしていないといけないのか?」と思うことがある。私は若い時から不公平ということに人一倍敏感であった。他人に不公平にならないよう気をつける反面、他人なり自分が不公平に扱われることに激しい憤りを覚えるところがあった。修道院に入ってからも「自分」は、そんなに変わるものではない。たまっている生ゴミ、焼却炉に持っていくべきクズの山を見ると心の中に戦いが起きる。「何もいつも私が捨てに行くことはない。他のシスターがしたらいい」結局はまた自分が捨てに行くことになって、心の中には「不公平、ずるい」という、はしたない思いが生まれてくることがある。こんな小さなことと人は言うかもしれない。でも人の一生は、こんな小さなこと一つ一つでしか成り立ってゆかないのだ。
物事は反対から考えてみると納得できることがあるものだ。何か「損した」と思うようなことを、それではもし自分がしなかったとしたら何を「得したのか」と考えてみることである。ゴミを捨てに行く時、確かに損しているように思うことがある。では、自分が見て見ぬふりをして捨てに行かなかった時、一体何の得をしたのだろうかと考えると、やはり、して良かったと思うものである。それは、自分が自分に向かって「良かったね」という密やかな、したがってささやかな満足感、幸せ感である。他人のレベルまで下がってはいけないとしみじみ思う。それでは、あまりに自分がみじめではないか。他人は他人、自分は自分、自分が心に定めた生き方を貫いて生きたい。損だ、得だというけれど、ジェラール・シャンドリーが言うように「一生の終わりに残るものは、我々が集めたものではなくて、我々が与えたものである」
人は絶えず損か得かを考えながら生きています。自分にとって面倒なことを他人がしてくれるを得だと思い、自分がそれをするのは損だと考えます。しかし、損する生き方の方が、神さまに近い気がします。