礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2023年3月5日

 私たちの教会の堺チャペルには、岩男くんという青年がいます。
 2年ほど前の話であるが、礼拝の時ご機嫌斜めで、時折「ウォー」と泣き始めたので、会衆賛美の最中に私は彼の後ろに立って、そっと手を伸ばし肩に手をおいて、彼の癒しと祝福を祈りながら賛美していました。
 彼は現在25歳。重度の自閉症。意思疎通はできません。感情のコントロールもできないので、フラッシュバックが起こると大粒の涙をポロポロ流しながら突然声を上げて泣き出したりします。しばらくすると彼は落ち着き始めました。私は「岩男くん、辛いだろうな・・・自分の気持ちを伝えることもできない、したいこともできない。神さまは、どうして岩男くんをこのような形で生まれさせられたのだろうか?」と思いめぐらしていると突然、神さまの濃厚な臨在を感じ、このように語られた。「わたしは岩男を愛している。だからこそ彼はここに存在している。」それは何故、障がいを持って生まれさせられたのかという理由はなく、ただ「彼を愛している」と言われたのです。岩男くんのお母さんは、周囲に「この子は、私の宝です!」と言ってレストランIMUの店長をしながら施設には預けないで、彼と生活をつづけておられます。岩男くんを、このような母親の元に生まれさせられたのは、神さまの最大のご配慮であり、岩男くんに対する愛の表れであったことを悟ったときに、涙が溢れてきました。それはもはや、切なさではなく、神さまの愛の大きさに圧倒された故の涙でした。
 これを読んでおられる人たちは、確実に一人もこの神の愛から漏れている人はいません。あなたが生かされていることは、神さまの愛の証なのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43章4節)【近放伝機関紙「福音の光3月号」掲載】
 キリストの福音が多くの人たちに広げられていきますように。

心のオアシス 2023年2月26日

 今や世界人口は80億人に達する勢いで、何年も前に人類統計比率から以下のような計算をした人がいた。
 「もしあなたは今朝目が覚めた時、病気でなく健康だなと感じることが出来たなら、あなたは今週生き残る事のできないであろう100万人の人たちより恵まれています。もしあなたが戦いの危険や投獄される孤独や獄門の苦悩、あるいは飢えの悲痛を一度も経験したことがないのなら、あなたは世界の5億人の人たちより恵まれています。もしあなたが苦しめられることや逮捕拷問または死の恐怖を感じることなしに教会の礼拝に行くことが出来るなら、あなたは世界の30億人の人たちより恵まれています。もし冷蔵庫に食料があり着る服があり、頭の上に屋根があり寝る場所があるなら、あなたは世界の75%の人たちより裕福で恵まれています。もし銀行に預金があり、お財布にお金があり、家のどこかに小銭が入った入れ物があるなら、あなたはこの世界の中で最も裕福な上位8%のうちの一人です。もしあなたの両親がともに健在で、そして二人がまだ一緒なら、それはとても稀なことです。もしこのメッセージを読む事ができるなら、あなたはこの瞬間2倍の祝福を受けるでしょう。何故ならあなたの事を思ってこれを伝えている誰かがいて、その上あなたは全く文字の読めない世界中の20億の人々よりずっと恵まれているからです。」
 貧しい人たちや、弱い人たちと比べて優越感を持つべきではありません。このデータを計算した人が言いたいことは、私たちはどれほど恵まれた環境の中にいるかを自覚して欲しいということなのです。
 私たちが幸せに生きることができる秘訣は、他者と比べることなく神さまが与えてくださった“自分”を受け入れること。比較すると妬みやストレスが生じます。すでに“恵み”の中に自分がいることを自覚することが大切です。これから来るものではなく、“今”が恵みの時なのです。

心のオアシス 2023年2月19日

 レオ・ダーカンジェロは、わずか11歳の時に窃盗を繰り返し捕まりました。その後、彼はヘロインにも手を出しました。逮捕され監獄に入れられたレオは壁になぐり書きされていた言葉を見つけました。「人生の旅路が行き詰まった時、苦しくて心が痛む時、ただ嘆くほかない時、イエスさまに頼りなさい。あなたが求めるべきものはイエス・キリストです」これを読んで彼は考え込みました。「今、俺の人生の旅路は行き詰っている。あるのはただ汚い過去と暗い未来だけだ」そして彼は涙を流しながら祈りました。「イエスさま、助けてください。俺は人生を台無しにして行き詰ってどうすることもできません。俺の人生を変えてください。これからは違う生き方ができるように助けてください。」祈り終わった後、彼は生まれて初めて絶望以外の感情を覚えました。監獄にいるのに自由を感じることができたのです。刑期を終えた後、高等学校を卒業して、ウエストチェスター州立大学と改革聖公会神学校を卒業しました。生まれ変わったレオは、監獄伝道に身を投じ自分がキリストの中で得た本当の自由を人々に伝えるようになったということです。
 マタイ福音書19章の中に登場する青年は人がうらやむような人物でした。地位や名誉、学歴、財産を持ち合わせ律法もすべて守ってきたというのです。隣人も愛してきたというのですから福祉活動もしてきたのでしょう。しかし“親切な良い人”であってもまだ不足を感じていたのです。イエスさまは彼に「自己犠牲のある愛をもって、わたしに従ってきなさい」と話され、それを聞いた青年は悲しみながら立ち去りました。
 損得関係なく自己犠牲を成就されたのはイエスさまただお一人です。神なるお方がこの地上に来て、裏切る弟子たちを最後まで愛し通され、私たちの罪の代価を背負って十字架にかかられました。必要なことは「どうぞ私を助けてください」と謙遜にイエスさまを求められるかということです。そうすればレオのような助けを得ることができるでしょう。

心のオアシス 2023年2月12日

 モーセとアロンはイスラエルの民のリーダーであったにも関わらず、神がかつて与えると言われたカナンに入ることができなかった。エジプトから民を引き連れ脱出し40年かけて辿り着いたカナンの地を目前にして召され、次世代の人たちが入っていったのです。入れなかった理由は民数記に、モーセは信仰によってではなく自分の感情まかせに言動してしまったことが原因だとされている。本来ならばモーセの功績からいくと無事にカナンの土地に入れてあげることが人間の情であるが、神さまの情と人間の情には違いがあることがわかる。非情に思えるが、それが神の栄光を表さない罪に対する裁きの実体なのです。私たちは襟を正していかなければならない。モーセがネボ山からカナンの土地を見渡している時に、「あなたはそこに入ることはできない」と神さまからの声がありました。しかしそこにはモーセが言い訳したり、情状酌量を求めたりはしている姿は見受けられない。私の想像であるが、恐らくモーセは自分の言動を反省しつつ、この壮大な歴史は自分だけで完結するものではないことを意識するようになり、自分はあくまで脇役であり神が主役だと考え、神がなさることにただ粛々と従っていこうと覚悟を決めたのだと思われる。私はこの“信仰の潔さ”はこの地上での人生で大きな助けになるのではないかと考えている。
 昨年までの9年間の石切での伝道では、神さまは遠方の方々を集めてくださった。しかし地元の人たちはほぼ来なかった。花まるキッズクラブなど楽しいイベントを知恵と労力を尽くしてしてきたが、日曜学校の子どもたちも集まらなかった。しかし花園の地では奉仕者を募らなければならないほど真逆のことが起こっている。では石切での9年間は無駄であったのか? 私はそうは考えない。難しい時期があっての今であり、神さまはそれぞれの季節を各個人にも教会にも与えられておられるのだと確信している。もっと“人生の季節”を楽しもうではありませんか!

心のオアシス 2023年2月5日

 先日「心のオアシス」にも書いたアメリカ人の友人であるSteve Younceの告別記念礼拝が行なわれた。アメリカまで行けなくて残念だったが、私が彼のことを綴ったコラムをSNS上で見つけた遺族が英訳して、拡大してボードを作り、それに私たちの学生時代から4年前に彼が日本を訪れたときの私とのツーショット写真等を沢山つけて葬儀が行われた教会に置いてくださった。私はそのことを知らなかったが、葬儀に参列されたSteveの友人がその画像を私に送って知らせてくれた。私のせめてもの彼に対する感謝と想い出をご遺族や彼の友人たちに伝えることができてとても嬉しかった。今やSNSで発信したものが全世界に届いている。距離を感じない時代になりつつあるが襟が正される思いでもある。
 私は留学時代に毎年のように年末年始にSteveの家に招かれ過ごしていたので彼の家族とも親交があった。実は彼が事故死した4日後に彼の父親であるSamuelも84歳で天に召された。私は奥さまのDorothyにお悔みのメッセージを送ると、「主人と息子が亡くなったことは悲しいことです。しかし私の周りに助けてくれる人が沢山いて祝福されています。これは神さまのご意志で計画であったと確信しています。」と返答があった。信仰の人だと思わされた。そして私の方が励まされた。告別式の後、赤い服を着たDorothyを中心にその家族親族が一同に集まり、SamuelとSteveの好きだったボーリングを楽しみながら追悼している写真がアップされていた。恐らく“情”を大切にする日本人は、しばらく喪に服するのでしょうけれども、これは死生観の違いなのです。“永遠”を信じる者は、“死”は終わりではないので“薄情”だと思われるかもしれないが立ち直りは早い。私も彼の突然の死にショックはあったが、彼の母親の信仰の告白によってすぐに立ち直ることができた。Steveは、よく天国の話をしていた。「天国では言葉の壁はない。自由に時間制限もなく話せるよ」と。天国が今まで以上に近くなり楽しみになった。

心のオアシス 2023年1月29日

 ある少年が交通事故で左腕を失いました。ある日、少年は父親に柔道を習いたいと言いました。何かにチャレンジしようとする息子に感心した父親は、早速息子を教えてくれる師範を探し出しました。少年は週に3回指導を受けました。しかし、おかしなことに師範は柔道の基本動作のうち一つだけを練習させました。練習では、この動作だけを強調し、完璧になるまで練習するように言いました。2ヶ月後師範が試合に登録したことを伝えると少年は驚きました。「先生、ぼくはまだ習って2ヶ月です。できる動作も一つだけなのに試合ですか?」しかし、師範は頑としてその言葉を受け付けませんでした。そして試合の日、なんと少年は第1試合に勝ちました。そして驚くことに、第2試合も第3試合も勝ちました。少年は全く信じられませんでした。しかし、そこで終わりではありませんでした。少年はすべての予想を超え決勝に進出し優勝までしました。家に帰る道で師範に尋ねました。「一つの動作しかできず、しかも片腕のぼくが優勝だなんて、どういうことですか?」「君が優勝した理由は2つある。君が完璧に会得した動作は、柔道で最も強力な動作であることと、その攻撃を防ぐ方法は『左腕』をつかむことだけだからだ。」(「トニー・キャンポロの回復」トニー・キャンポロ著より)
 私は毎週、講壇でメッセージさせていただくことや「心のオアシス」を書いていることを“当たり前”とは思っていない。勿論牧師としての職務としては当たり前なのかもしれないが、文章が書けない、人前で話せなかった男が、毎週それをしている。いいえ、「させていただいている」という方が正しい。イエスさまは、私たちの弱さの中に強さを与えると言われた。短所のように見えるものでも、天を見上げるとそれが長所に変えられている。実は毎日が奇跡なのです。会堂が与えられたことも目に見える大きな奇跡かもしれないが、息をすること、瞬きをすること、歩けること、寝ることができること、すべては神の奇跡なのです。

心のオアシス 2023年1月22日

 先週、私にとって衝撃的なニュースが入ってきた。私が説教の中でも度々話してきた留学時代からの親友であったSteve Younceが、交通事故で亡くなったという内容であった。私がまだ英語力がなく会話もままならない状況で孤独を感じていたとき、彼の方から近づいてきて私と行動を共にするようになった。当時の私の語彙数は非常に少なく話す内容は薄っぺらなものだったが、彼はそこから話を広げて色々なことを話してくれた。私が理解できなくても面倒がらずにとことん付き合って説明してくれた。彼は私によく「天国では言葉の壁もなく、時間の制限もなく、自由に語り合うことができるよ」と話していた。在学中、クリスマスなどの休暇時期は、日本に帰れない私を家に招いてくれたことが何度もあった。お互い卒業後も数年に一度ほどの手紙のやり取りはあったが、パソコンが普及しSNSで繋がることができるようになり、メッセンジャーで近況報告をしあうようになった。2019年に、遥々アメリカから私に会うために日本を訪れて、石切チャペルと堺チャペルにも来て証をしてくれた。そして新会堂を建てることになった時にも大変喜んで、献金を送ってくれた。花園チャペルのワインレッドの屋根は、彼の捧げたものが充てられました。屋根を見上げる度に彼を思い出す。
彼の死を悼む友人たちがSNS上で彼のことをこのように表現していた。
 「Steveは、見知らぬ人でも困っていたら、いつも手を差し伸べてあげていた。彼には誰にも持っていない賜物が与えられていた。」彼は誰にでも“神の愛”を実践していたことがわかった。彼は数十年前から難病になった。しかし彼は『僕はこの壊れた体であっても大丈夫!いつか近いうちに新しい体が与えられます」と言っていた。今、彼はその完璧な体が与えられていることでしょう。彼の人生を誇りに思います。
 彼の生きざまから教えられたことは、人生の最後に残るものは、「どれだけ受けたか」ではなく、「与えてきたか」ということです。栄光在主。

心のオアシス 2023年1月15日

 「私の思い通りになったことは一つもなかった」という本の中に、著者がこう書いていた。「中高生のミニストリーをする中で、多くの子どもたちと過ごす中で確信したことは、「正しい答えによって子どもたちが変わるわけではない」ということです。どんな子どもも「しっかりしなさい」「勉強しなさい」と言っても変わりませんが、感動すれば変わります。悪い家庭環境で育ち、怒りをコントロールできず、事件や事故をしょっちゅう起こす子がいました。その子をわが家で寝かせたり、一緒に遊んだり、修養会や徹夜で祈ったりしても、全く変化が見られませんでした。ある日、警察署から電話がきて急いで行ってみると、その子が複数の人を殴ったというのです。前にも同じようなことがあったため、彼はすぐには釈放されず、数日間、被害者のところを回って謝罪し、ようやく連れ戻すことができました。今回は彼も申し訳ないと思ったのか、私に「ごめんなさい」と言いました。それを聞いて、私が『だいじょうぶだよ』と言うと、その一言でその子に変化が起こりました。どんなに祈っても何も変わらなかった子が、それを機に変わり始めたのです。」
 イエスさまは、その愛の言動によって多くの人たちに影響を与えました。「わたしを憐れんでください!」と叫びながら付いてくる女性に対して、イエスさまはユダヤ人が異邦人に対する対処法で対応していました。すなわち無視して、関わらず、相手にしなかったのです。しかし弟子たちが願った、叫ぶことを止めさせ、追い返すことはされず、叫ぶ(祈る)ままにさせられました。そしてユダヤ人が異邦人に対して表現する「野良犬」ではなく、家の中で飼う「小犬」と言われました。それによって家の中に入ることができない「野良犬」では諦めるしかない女性に道が開かれました。「小犬も食卓から落ちるパンくずはいただくことができます!」ユダヤ人だけが神に選ばれた民だと考えられていたが、この異邦人女性は、自分もその家の中にいることを確信したことでしょう。

心のオアシス 2023年1月8日

 受け取った年賀状の中に、「献堂前後に成された神さまの奇跡は、まだ関西カルバリーフェローシップで続いていますか?」との質問が多数あった。12年間の教会開拓の経験からいくと、信じられないことがずっと続いている。石切地域では、何千枚チラシを配っても、地元の人たちの教会への出入はほぼなかった。またキッズクラス(日曜学校)に新しい子どもたちを求めて試行錯誤してきたが根付くことはなかった。来られるようになったのは平均1時間ほどかけて来られる遠方の方々が9割強。この人たちの祈りと協力によってKCFは支えられてきた。昨年土地探しを始めた時から“地元の人たちも集まる教会”を祈るようになった。新会堂での礼拝がスタートしてから3ヶ月、定期的に出席される方々の中に地元の人たちが15名ほどもおられる。出入された方々を入れると何十人にもなる。その他日曜学校も6名ほどの近所の子どもたちが集まるようになった。開拓で苦労しておられる先生方の話を聞いて、私も同意してきたが、花園チャペルがスタートしてから、それらの話題を覆すような現象が起こっている。それは教会役員さんたちとも「何がどうなっているのか?」と疑問しか出てこない。私たちはこの地に置かれた神さまからの特別な計画があることと、そのための働きを担わせていただいているのだと自覚するようになった。では、全く実りのなかった時代は無駄だったのか?といえば、そうではない。神さまは短期間に何かをされるだけのお方ではなく、ある時には何十年、何百年もかけて着々と計画を進められることは旧約聖書を見ても一目瞭然である。私たちが諦めずに神さまに希望と期待を置いて歩み続けることができるかが問われている。
 イエスさまは娘が死んで途方に暮れる父親に対して「恐れることはない。ただ信じ続けなさい!」と声をかけられた。目に見える現実に一喜一憂してはならない。私たちが求められていることは、時が良くても悪くても継続して“主の道具”と成り切ることである。栄光在主。

心のオアシス 2023年1月元日

 花園チャペルの新会堂で新年を迎えることができて大変嬉しい。開拓12年間が走馬灯のように思い出される。私が関東の母教会を離れ関西で開拓をする決意をしたときに、ある伝道者から、「あなたの年齢からの開拓は遅すぎる。お手並み拝見させていただくよ」と言われた。当時、「わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」(イザヤ43:19)との御言葉を握っていたので、その伝道者の人間的な言葉にある意味ショックを覚えた。勿論、無謀だったり常識もわきまえておかなければ、この世では上手くいかないだろう。「お手並み拝見?」私は誰のお手並みを拝見されるのだろうかと思った。もし“私”の能力のことを言っておられたのであれば、笑いしか出てこない。確かに年齢的にも能力的にも無理であることは一目瞭然。私はその時に「神さま、どうぞこの伝道者に、無から有を生み出すことができるあなたのお手並みを見せてあげてください!」と心の中で祈ったのを忘れることはできない。 
 まだ経済力もなく、数名の人たちしかいなかった時代から、私たちの人生も教会も創造主なる神さまに導かれ、私たちは神さまの願いと計画をかなえるための“道具”だという意識を持ちながら牧会してきた。なので開拓当初から事あるごとに皆さまの前で「私たちの教会はあちらこちらに移転しながらの礼拝ですが、もし神さまが必要とされたら短期間に会堂は与えられます!」と信仰の宣言してきた。
 多くの人は「開拓12年で土地付きの会堂が建つなんて凄い!」と驚かれるが、凄いのは神さまであって、私も教会のメンバーも“主の道具”として用いられただけで、神さまの側から見ると、いとも簡単なことだったのです。しかし私たちは肝に銘じておかなければならないことは、この地上のものはいつか廃れ無くなるということ。永遠の都を目指さなければ何も意味をなさない。「いのちの書」に名前が記される生き方が問われている。2023年は、永遠に繋がる良い一年でありますように。