礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2023年5月21日

 最近、お会いしたことのない方から相談されることが多くなったが、先日は遠方のあるクリスチャンから電話があった。YouTubeで教会関係の動画を検索していく内に、私が過去に母教会で収録した「キリスト教入門講座」(KCFのHPにもURL有)がヒットして、それをご視聴くださった方だった。その動画にとても感動され感想を述べてくださると同時に所属しておられる教団の問題を訴えて嘆いておられた。その教団の総会に参加しても政治運動のことを議論するだけで、信仰的な話題は全く出てこない。逆に信仰の話をしたら白い目で見られる。教会での“お証”は、ただ毎日の生活日記のようなもの。祈りを勧められることもなければイエスさまによって、どれだけ自分の人生が変えられたかという話題は全く出てこないというのだ。リベラルな教会には、そのような実体があるのは知っていたが、救いと日々の力が欲しいと願う人たちにとっては残念なことである。他教団の悪口を言うつもりはないが、聖書セミナーで学んでいるヨハネ黙示録に出てくるサルデスやラオデキヤの教会のように、実体はあるが霊的に死んでしまっている教会のようである。
 聖書(神の言葉)を握ることによって、人生の荒波に打ち勝ち乗り越えてゆける教会形成を私は目指し祈っている。なぜなら私には人の悩みを解決していけるような力も知恵もない。私の使命は、執り成しの祈りをすることと、聖書を伝えることだと思っている。
 先日、中学にも高校にもまともに行かず毎日酒とタバコに明け暮れていた方が、「イエスさまを信じてから、それらを止めたいと思ったからではなく、全く欲しいと思わなくなり解放されました。」とお証しておられた。今は学生時代を取り戻すかのようにして勉強に勤しんでおられる。 
 私は献身してから30年以上経過するが、信仰が入ると聖霊さまが働かれ人が変わっていく様子を何度も見てきた。そしてそれが私の活力となってきた。福音を伝える時に伴う主の働きに感謝。主は素晴らしい!

心のオアシス 2023年5月14日

 「私は」「私が」「私を」と“自分”を主張しなければ生きていけないように見える世の中にあって、今礼拝で学んでいる出エジプト記の学びは大変恵まれる。私の毎週の礼拝メッセージでは必ずと言って良いほど「神実現」や「主にあって何とかなる」といった内容が出て来る。それは週の大半、不安や心配の故に自分の願いがかなえられるために一生懸命努力しているのに、一向に消えないストレスと戦っている多くの人たちのために意識的に語っている。世の中の価値観が植え付けられてしまっている人たちに聖書の価値観によって解放される世界を是非味わっていただきたいという牧師の切なる願いである。人は何らかの形で自分が主人公になりたいと願い、それが達成できると一時的な満足感はあるが、すぐに次なるオファーを求めてしまう。それが生きる活力になっていると言われるが、聖書は、主人公は“神”であって、私たちはそのお方に従う従者にしかすぎないことを教えている。そして自分のために用いている活力を神の願いが実現されるために用いるならば、私たちの全ての必要は神が添えて与えてくださるとまで書いてある。
 ある書物の中に「人生は思うままにならないのが当たり前であり、それ故にありがたいのだ。人の思いというものの中には、良いものもあるが、よこしまなものもたくさんある。それがもし、人の思いのままになるとしたら、我々は安心して生きていられまい。思うままにならないからこそ、安心して暮らすことができるのだ。『あんなやつ、死んでしまえ』という思いが、そのまま実現するとしたら、誰も安心して生きていることはできません。人生が思うままにならないということは、考えようによってはありがたいことなのです。」という内容のことが書かれてあった。
 創世記を読むと、アダムとエバも自分の願いを叶える人生に方向転換してからすぐに責任転嫁が始まり、殺人が起こり、一夫多妻制になり復讐の文化が形成されていった。実はこの世は“神のため”にあるのです。

心のオアシス 2023年5月7日

 “五月病”という言葉もあるが、四月から様々な環境が変わり、この時期には病んだり落ち込んだりと複数の相談を受けることが多い。内容は様々であるが、どれも共感できる。何とかしてあげたいとは思うが祈ることしかできない。しかし私はどんな問題も、“主にあって何とかなる!”と信じて疑わない。主が登場されるまでの期間、私たちの忍耐力が試される。ダメなら他の道を探っても良いと思う。それも神が開かれる道であると確信している。私も人生を振り返ってみて思うことは、“主にあって何とかなっていた”である。
 今から3500年ほど前に激しい飢饉の故にエジプトに移住していたイスラエルの数が増えるに従い、それに脅威を抱く王が彼らに重い労役を科すようになった。神に忘れ去られたかのような長い苦しみを経て、ある日突然神は「わたしはあなたたちの苦しみ、うめき、叫びを知っている。わたしがあなたを救い助ける!」と声をかけられた。神を信じる者にとっては、忘れることなくすべて知っていてくださっているお方がいることが大きな励ましである。“祈り”は確かに力である。
先日友人が老後の貯蓄がなくて心配だという話をしていたので、私は質問した。「この日本で、老後のために実際、数百万、数千万円貯めることができている人がどの位いる? 私たちの周りで貯蓄がなかったから住む場所を失い餓死した人がどの位いる?」すると友人は、「確かに一人もいない」と返答した。神は何とかしてくださるのである。
 私が読んだ書物の中にこう書かれていた。「きょう私が涙を流したとしても、病気で苦しんだとしても、大したことではありません。神の真実さは、私たちの短い人生を数年もしくは数十年引き伸ばすかどうかの次元ではありません。私たちが本当に神の約束を信じるなら、神は私たちの死までも責任を取ってくださいます。神が責任を取ることのできないことは私たちの人生には起こりません。」 ハレルヤ主よ感謝します!

心のオアシス 2023年4月30日

 先日、花園チャペルで“プレイズ&カフェ”という集会が行われた。実は私たちの教会は、開拓スタートからこの13年間、借り物の教会であったこともあり日曜日だけ礼拝をして、平日にこれらの類の集会は全くやってこなかった。新会堂を献堂してから半年が経過して、そろそろPAの調整なども整い始めたので、今回は恵先生がすべてを仕切って第一弾の賛美集会の時を持つことができた。内向きを目的とした集会で、外部には全く宣伝しなかったので、人数がそんなにいたわけではなかったが、濃厚な主の臨在がそこにあった。人が沢山いると恵まれるような錯覚に陥ることがあるが、それはただ雰囲気に呑まれている可能性もある。主の臨在があれば人数は関係ないことが証明された。詩篇22篇3節には「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」とあるが、そこにいた人はみなそれを体験したように思う。賛美集会に初めて参加されたある教会メンバーご夫妻は、「参加するまで、“不気味”だと思っていましたが来て良かったです!」とお話しくださった。そして定期的に行なって欲しいという要望も沢山きた。
 世の中にある様々なイベントやコンサートや音楽会などでは感情的・精神的・肉体的な部分においては感動したり満たされる部分があることを私も知っている。しかし霊的部分が共鳴する体験は、神さまを賛美し礼拝する時以外に感じたことはない。それはただ楽しかったとか満足したというようなレベルではない。言葉では表現できない恵みが注がれるのである。歴代誌下5章には、ソロモンが建設した新しい神殿に契約の箱が運び込まれたとき栄光の雲が神殿を満たし、祭司たちは雲によって聖所で奉仕することができなかったと書かれていますが、その一部分を体感できたように思う。
 教会でなされる礼拝や賛美やお祈りは、ただの気休めではない。気が付かなくても確実に神さまの霊が私たちの中に注がれている時間である。

心のオアシス 2023年4月23日

 聖書は学べば学ぶほどその高さ、長さ、広さ、深さdに驚きを覚える。スープで例えると、様々な出汁がよく出ているが、それらがバランスよくブレンドされていて、最後まで飽きずに飲み干せるといった感じであろうか。また噛めば噛むほど味が出てきて新たな発見をすることができる。そしてどの時代の人々にも救いを与え、希望を与え、癒しと解放を与え続けてきた。時代と共に色褪せすることなく求められてきた聖書は「世界のベストセラー」であることは誰も否定することができない事実であるが、それは聖書が“神の言葉”である故に可能になることである。
 特に旧約聖書を調べていくと見えてくるのは、神は人類に対して長期計画と短期計画を持っておられるということである。私たちは“今”に生きているので、短期的な変化や奇跡を求める傾向にあるが、神の側は長期的に捉えておられることも多々ある。主は「わたしはすぐに来る」とおっしゃったが、2千年前から神を信じる者たちは、この言葉を信じて「再臨は近い」と、自分たちの時代にキリストが戻ってこられことを期待しながら生きてきた。モーセも神の命を受けて400万人ものイスラエルの民をエジプトの束縛から引き出した業績から考えると、一緒にカナンの土地に入れてあげても良かったとは思うが、実際には1ヶ月ほどで行ける道のりを40年もかかり、しかも目的地を目前にして召されていった。そして次世代の人たちがそのバトンを受け継いでいったのである。
 イスラエルの族長のアブラハムも神の声に従い、何年もかけて約束の土地には入っていったが満足できるような場所ではなかった。もし地上での“ふるさと”を求めていたならすぐに故郷に帰っていたであろうが、そうはしなかった。へブル書11章には、彼は“天のふるさと”を求めていたと記されている。自分だけで全てが完結するとは考えなかった。
 このように私達も神の短期と長期の計画をわきまえ、諦めずに祈り進むことが求められている。あなたも神の目的の為に生かされています!

心のオアシス 2023年4月16日

 人間の体は不思議で満ちている。例えば、ケガや病気になった場合、薬を服用しなくても、それらを治そうとする機能が備わっていて、意識しなくても身体に様々な変化が起こる。 これは自然治癒力や自己治癒力と呼ばれていて、神さまが人間や動物に与えてくださった免疫システムである。欠けがあれば、他の部分が補おうとするシステムも発動される。
 実は新約聖書の至る所に「教会はキリストのからだである」とある。「天と地は栄光、大空は御業をしめす」(詩篇19:1)とあるように、私はこの地上におけるあらゆるもの、またすべての法則の中に神さまの隠された奥義が表されていると確信している。完全ではないが親子関係の中にも神の人間に対する“無償の愛”を見出すことができる。結婚式は“花婿イエス・キリストと花嫁である教会の関係”を表していると聖書は示すが、純白のドレスを着る花嫁さんは罪汚れがない状態を示していて、躊躇なく花婿の前に進み出る様子はまさに再臨の時のキリストと教会を表している。そして身体の機能が、“キリストのからだ”である教会にも備わっていることをいくつも発見することができる。私はそれがわかってから、キリストのからだなる教会は、主の意志によって導かれ備えられていくので、気負わないで委ねる牧会をすることができるようになった。「もし必要であるなら神さまは人材や必要な資金を与えてくださる」というスタンスなので、「献金をしてください」というアピールもほぼしなかったが、志しが与えられた人が献げてくださり教会が建った。その他礼拝に集う人、祈りの人、音響に強い人、日曜大工ができる人、HPを作る人、音楽のできる人、捧げる人、おもてなしができる人など教会の欠けている部分を、祈り静観しているだけで神さまは自然と備えていってくださった。最近は「毎週土曜日にお掃除しにきます」と申し出られた方もいる。
 「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

心のオアシス 2023年4月9日

 父親と一緒にサーカスの入場券を買うために長い列に並んでいた女の子とその父親がいた。その前に夫婦と8人の子どもの大家族が並んでいてサーカスを心待ちにしている様子だった。お世辞にも裕福そうとは言えない家族ではあったが、マナー良くみんな手を繋ぎ、ピエロやゾウや空中ブランコの演技のことなどを嬉しそうに話していた。どうやらサーカスを観るのは初めての様子だった。しかしその家族にショッキングな事態が訪れた。チケット売り場でその父親が「子ども8枚と大人2枚ください」と告げると、その入場券の合計金額が提示され急に父親の表情が青ざめた。母親も黙ってうつむいている。再び売り場の女性に金額を聞き返すが間違いではない。この両親は告げられた金額のお金を持ち合わせていなかったのだ。明らかに苦悩の表情を浮かべる父親。今楽しみにしている子どもたちにサーカスをみんなで観ることができないことを告げなければならない。それを打ち明けようとしたその時、後ろに並んでいた女の子の父親がズボンのポケットに手を入れて、20ドル札を取り出し何気なく足元に落とした。そしてそれを拾い上げながら、前に並んでいる大家族の父親の肩をたたいてこう言った。「失礼ですが、ポケットからこれが落ちましたよ」人から施しを受けるような人ではありませんでしたが、その時は20ドル差し出した父親の手を両手で堅く握り締め、目にはうっすらと涙を浮かべて「ありがとう。ありがとうございます。これで助かります!」と感謝を述べて無事に家族全員でサーカスを観ることができたとのこと。これはアメリカでの実話である。
 人の他者に対する親切は感動するものだが、神さまの人に対する愛の行為は並大抵ではできることではない。神なるお方が肉体をとってこの地上に来て、自分中心の罪に苦しみ地獄街道まっしぐらに進む私たちのために、その罪の代価を十字架にかかり支払ってくださり三日目に甦り天国への道を備えてくださった。何と心強いことか! Happy Easter!

心のオアシス 2023年4月2日

 「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ福音書16章33節)
 イエスさまは、「これから勝ちます」「勝てると思います」と言われたのでなく「“すでに”世に勝っている」とおっしゃった。この地上においては“過去・現在・未来”という時間の時空の中で生きているので、なかなか理解できないことだが、“信仰”というツールを用いてイエスさまの言葉を受け止めるならば、現実的には、様々な辛いことや困難があっても、勝利している生き方をすることができる。その一つの例として、先日WBC(ワールド・ベースボール・クラッシック)という野球の国際試合で日本が優勝した。強豪国相手に勝ち進む“侍ジャパン”の各試合がテレビでも放映された。決勝ラウンドでは会場がアメリカに移され、時差もあって日本時間では午前中に試合が行なわれた。昼にはネットニュースで勝敗がわかるのであるが、それで日本が勝ったことを知った上で夜の実況放送を見た。“すでに勝利した”事実に基づいて試合を見ると安心できる。どんなに相手が優勢になっても、日本がチャンスを逃しても、全く動揺しない。なぜなら勝ちの結果がわかっている試合だからだ。
 私たちもこの地上では様々な壁にぶつかり悩むことは多くある。人生の断崖絶壁にいたとしても信仰をもって現実を見るならば、すでに勝利して乗り越えているわたしたちがそこにある。なぜならイエスさまは“死”に勝利して甦られたから。この勝利者なるお方が私たちの人生の“主”であり中心におられるなら、恐れることも悩むこともない。ただ勝利に向かって歩んでいるだけなのです。先週も「メッセージに勇気が与えられました」と伝えてくださる方がいた。信仰は気休めではない。私たちの現実に対するリアルな“力”なのである。だから心配無用。
 今週は受難週。イエスさまは勝利するために死なれました。

心のオアシス 2023年3月26日

 人生は預かりものである。すべてのものは、私たちがこの地上にいる間、神が一時的に貸してくださっているにすぎません。あなたが生れる前は神のものでしたし、あなたが死んだ後はまた誰かに貸し出されるのです。ただしばらくの間、持たせていただいているというだけなのです。(「人生を導く5つの目的」リック・ワーレン著より引用)
 この心の持ち方は、この地上で生きていく上でとても大切な真理だと思う。「人生は神からの預かりもの」という意識がなければ、“得る”ことにほとんどのエネルギーを使いならが生きることになる。そして他者と比べながら優越感に浸ったり、劣等感に陥ったりの繰り返しとなる。
 ある牧師がこのように言っておられた。「私は自分の元手がゼロの状態で生きてきたので、貧乏になるかと思ったが、かえって金持ちになった。驚くなかれ!私の資本がどれくらいあるかというと、およそ12億円である。なぜか? 私の身体を作ろうとすればドイツのような科学が発達した国でも2億円するという。19歳の時に妻に出会ったため、それだけでも、もう4億円である。さらに、愛する娘が4人いるため、すでに12億円の財産がある。私は家に帰るたびに、自分を12億円所有している富豪だと考え感謝している。もし神さまが私を呼ばれて死んだとしても、損することなど何もない。なぜなら、神さまが下さったこの高価な身体をただお返しするだけだからだ。このような人生観をもって生きているので、私の人生はいつも平安で感謝なのである」
 先日「最低6千万円は持っています」と題して、私がどうしてそんな大金を持っているのかを説明しながら、みなさまも今日から同様に富豪になることができることをお話しさせていただいたが、上には上がいるもので2億円所有している牧師がいた。神さまが主体となる世界のカラクリがわかると豊かな生き方ができるようになるものである。気になる方は2023年3月19日の礼拝メッセージをYouTubeでご視聴ください。

心のオアシス 2023年3月19日

 聖書を読んでいて恵まれた感想を述べてくださった方がいる。内容は、「これまで、聖書を勉強しようとして、最初は注解書を引きながら読もうとしたのですがとんでもなく時間がかかるので諦め、今は中身が理解できなくてもまず1回目は字面だけでも追ってみようと思って読んでいるところで、ちょうどエレミヤ書に差しかかったところです。『主よ、わたしは知っています。人の道は自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを自分で決めることができないことを』(エレミヤ10:23)これを読んで、ハッとさせられました。というのは、これまでの長い人生において、自分の道は自分で決めて歩んできた、と当然のように思っていたからです。しかし確かに言われてみれば、神のご計画がある以上、ここに書かれているとおりであり、そのことに気付かないまま今まで生きてきたことに我ながら改めて唖然とさせられたと共に、それはその通りだなあ、と非常に感慨深い思いに浸りました。また、これまで自分で決めた道を後悔することもたびたびありましたが、実は神のご計画に沿って歩んできたと思うと、これまでの歩みにおいては自分のできる範囲で精一杯歩んできたのだから後悔する必要はないと思えてきて、少し気が楽にもなりました。さらに本論からは少し外れるかもしれませんが、1行目の『わたしは知っています。』というのは、わたしは知っているけれど、これを知らない(愚)者も結構多い、ということを言外に言っているようにも思え、そのことについても深みのある神の言葉だなあ、と思った次第です。」
 これを送ってくださった方は、人生の先輩でもあり社会的にも様々な経験をしてこられた方なので真実味がある。親は子どもが自立していく姿を見ることは嬉しいものであるが、牧師もメンバーの方々が自ら聖書やデボーションを通して恵まれておられるご様子に喜びを感じる。こうやって恵みをシェアすると、それは他者にも伝染していくものである。栄光在主。