礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2015年4月5日

 「ビジネスを支える聖書のことば」より聖心セレモニー取締役社長・ 疋田さんのお証です。
私は現在、葬儀の仕事をしております。これは神の召しによるものです。どのような商売でも、あるいは事業でもそうでしょうが、召命感がなくてはならないと思います。すべてクリスチャンは、それぞれ神より召命感を持って事を行なっていると思います。私もそうです。15年前、神に示されてこの仕事をするようになりました。神に示されたからといって、順風満帆の日々であったかというと、とんでもない、何度も何度もピンチに陥りました。あるときは仕事が全く来なくて、蓄えもなくなり、借金をして、それもなくなり、明日はどうなるのだろうかと思ったりしたこともありました。またある時は人に裏切られて、この時もまた大ピンチでした。そのような苦しい時に神が与えてくださったのが「恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」(ルカ12章32節)の御言葉でした。「恐れるな、小さい群れよ」ある時は真夜中、布団の上に起き上がって祈り、あるときは車で遠いところへ行き、誰もいない公園に行ってベンチに身をかがめて祈ったものでした。「この仕事は神が与えてくださった仕事なのだ。必ず全うさせてくださるに違いない」だから「恐れるな、小さい群れよ」と。あれから15年。今は従業員を使って仕事は順調にいっております。けれども、このまま順調な人生が続くとは思っておりません。人生には何が起こるか分かりません。人生は生涯、戦いであると私は覚悟しております。「恐れるな、小さい群れよ」この御言葉こそ、私の力です。今後とも、私はこの御言葉に支えられて生きていくでしょう。聖書は真実であり、御言葉は神の力であると私は確信しているのです。

 神さまは私たちの中に何も頼るものが失くなった時に、最終手段を人間に与えてくださいました。それが「祈り」です。しかしそれはこの世のどんな力よりも強力なツールです。主は死から甦られました!

心のオアシス 2015年3月29日

 かつてインドネシアで宣教しておられた安海靖郎先生のお話です。
ある経営者がいて、その奥さんはクリスチャンなのですが、イエス様の話をしても全く聞く耳を持ちませんでした。とても頑固な人で、自分は何でも知っていると思っていました。経営する会社は、海外にも支店がいくつかあって、インドネシアにある支店に訪れたときに、ボルネオのジャングルに行きたいとのことで、そこに当時住んでいた安海宣教師が紹介され、3日間共にジャングルで過ごして日本に帰っていきました。
 しばらくしてから、安海先生は手紙を受け取りました。それはあの頑固な社長さんがイエス・キリストを信じて洗礼を受けたというのであります。その経緯はこのようなことでした。この社長さんの会社は海外にもあって、駐在員を派遣しているけれども、その家族と会って話しをすると、大きな家が与えられていても治安が悪いと不満を言い、お手伝いさんがついていても盗みがあるなどと不平しか聞いたことがありませんでした。しかし、3日間、安海先生と過ごして、何もない所で、先生は朝から歌を歌い、喜んでいる姿を見ました。日本に帰って考え込んだというのです。自分はすでに50歳代で、一応すべてのことを知っていたつもりでしたが、まだ知らない世界があるのだと思いました。そして奥さんから聖書をもらって読み始めて、神の国の世界を知ったというものでした。

 神さまが、日々私たちを最善に導いておられることを信じることができれば、環境とか状況に左右されずに感謝することができるようになります。愚痴や不満が出るのは、私たちの人格が整えられていないか、神さまに委ね切ることができない人間の姿なのです。ある牧師先生は、「恐れの反対語は信仰です。」と言われました。丸木橋を渡るときに崩れるのでは?と思うと、恐れが起こりますが、木の中に鉄筋がくい込まれているのを見たら、何の恐れもなく渡れるでしょう。私たちの人生を喜び溢れたものにしてくれるのは、神さまに対する全き信仰です。

心のオアシス 2015年3月22日

私が大和カルバリーチャペルでご奉仕していた時期にお祈りしていた一青年のプログからです。
タイトルは、「愛する人を探す人」  

「地震が起こって、私が死んでも心配しないでね。天国にいるから。」
親しい友にこう言ってきた。すると、友が、「探しに行く。」と言った。
私は、瓦礫の中で、わたしを必死に探す友の姿を思い浮かべたら、心が締め付けられるようにくるしくなった。

先日見たテレビが忘れられない。妻を探すために潜水士になった人のことを。その方は、3.11の地震の時に、愛する妻を津波で失った。数日後に、瓦礫の山から見つかった妻の携帯に、届かなかった最後のメッセージが残っていた。「帰りたい。」彼は胸が張り裂けるようだった。「自分の手で妻を家に連れて帰る」そうして、彼は潜水士の国家資格を取得した。3年近く行方不明である妻を海の中から見つけるために。 「冷たい海の底に沈んだままでいるのはとてもかわいそうだ。私にメールで『帰りたい』と言っていたので私の手で妻を探し必ず家に連れて帰りたい」と話した。

彼はどんな思いで、海の底を探しているだろう。冷たい海の中を。行けども、行けども、気が遠くなるほど広い海。必ず妻を連れて帰るという決心。被災地の海には、今もなお、津波がのみこんだ遺留品が多く沈んでいる。彼は、それらを、一つ一つ丁寧に拾っている。

イエス様は、どんな思いで、罪の海に飛び込まれただろう。冷たく汚れた海。失われた魂を探すために。命をかけて。私を、あなたを探すために。
「人の子(イエスキリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです。」ルカ19:10

心のオアシス 2015年3月15日

 先日、複数の体験談メールをいただきましたのでご紹介します。
① (3年前に)洗礼を受けているにもかかわらず未だタバコをふかして
いる(中学3年生の時から30数年間)自分が偽善者に思えて本当に心苦しかったです。うつ病を患い精神科の多量の薬を飲み、時にはアルコールにも手を出しニコチン中毒の生活でした。去年の秋頃から不思議な力が働き気持ちの変化が現れました。真心で礼拝を捧げる者になりたいと思い始めたのです。それからあらゆる方法でチャレンジしましたが失敗を重ね、気が付くとタバコをくわえていました。そこで気が付きました。何一つ出来ないクセに自分の意志でやろうとしている高慢な私がそこに居ることを・・・「天のお父様の娘として恥じないように主よ、助けてください!」と必死に祈りました。そして今は精神科の薬から、ニコチン中毒から完全に解放されました! お祈りの力に驚きを感じます! ハレルヤ!!感謝しますo(^▽^)o

② 高校生の弟が煙草を吸っているのを見て、真似して吸っているうちに
止められなくなりました。36歳で洗礼を受けてからも止められず、しかし洗礼を受けたばかりで、恥ずかしくて教会でも祈ってもらう事ができず、一人で止められるように祈っていました。しかし、なかなか祈りはかなわず、ある時に「イエスさま。煙草を止める決心をしました。あとは助けてください。」このように祈ったところ、翌日よりひどい喉の風邪をひき、はじめは風邪のせいで煙草を吸わなくなったのかと思ったのですが、それからずっと吸っていません。なんで吸わないのかわからず、はじめは戸惑ったものです。
 
③ ある男性からは、「この教会に来るようになって、酒の飲めない身体になりました。小崎牧師さま、信徒の皆様、ありがとうございました。くそ=!」とメールをくださいました。神さまの手にかかってしまえば、自分の思い通りにはならない自覚と悔しさの表現なのでしょうね(笑)。

心のオアシス 2015年3月8日

 故ハ・ヨンジョ先生の言葉は、今でも心に響くものがあります。マタイ福音書10章30節からのメッセージの一部分をお分ちします。
 「また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」とあります。神は、毎日抜け落ちる髪の毛まで、どのように数えておられるのでしょうか。神が天地を創造される前に私たちを選ばれたというみことばも、どうにも理解できません。人間の常識ではとうてい理解できません。そのように細やかに徹底して私たちのことを知っておられ、髪の毛の数まで数えておられる方が神なのです。「ですから、心配したり、恐れたりしてはなりません。髪の毛さえもみな数えられる神が、ましてあなたの一挙手一投足をご存知でないでしょうか。あなたの悔しさをご存知ないでしょうか。今、あなたが悔しい目にあっていることを、神はすべてご存知なのです」と言っておられるのです。それにもかかわらず神が沈黙しておられるなら、その沈黙に私たちは同意しなければなりません。神を信じる者であれば、必ず覚えておくべきことが一つあります。世には偶然はないということです。偶然に起こる出来事は一つもないのです。ですから、クリスチャンは、「ついてない」という言葉を口にしてはなりません。すべてのことは必然です。クリスチャンに起こるすべてのことは、神の摂理であり、ご計画なのです。世で悔しい目や苦しみにあう時、神を恨んではなりません。そのようなときは、さらに神に拠り頼まなければなりません。必ず神が私たちを良い道へと導いてくださると信じなければなりません。特に、私たちの人間的な考えでは到底理解できないようなことが、この世にはたくさんあります。そして、自分や自分の環境が困難に陥るとき、私たちはたましいを見る目を持たなければなりません。良い御心が必ずそこにあります。

 「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか」(マタイ6章26節)

心のオアシス 2015年3月1日

 これは実話です。アメリカのベリーという女性には、大きな夢がありました。それは、自分のように貧しさのゆえに勉強できない子供たちのために学校を建てるということでした。ある日、祈っているうちに思いついたことがあって、大富豪のヘンリー・フォードを訪ねました。そして彼に、学校を建てるための寄付を募ったのです。話を聞いていたヘンリー・フォードは、コインを1枚差し出しました。それは屈辱的な拒否の表現でしたが、ベリーさんは失望せず、祈った後、そのコインで種を一袋買い、それを空き地に蒔いて育てました。毎年少しずつ種の量は増え、数年後には農場に変わりました。ついに建物を建てることができたベリーさんは、もう一度ヘンリー・フォードを訪ねました。「数年前にいただいた1枚のコインによって、成し遂げた成果を見てください。」ヘンリーは、コイン1枚で建物を建てたという言葉が信じられず、農場に建った学校を見に行きました。そして、深く感銘を受けた彼は、学校のために100万ドルを寄付しました。
 ベリーさんは、現実的には、とうてい学校など建てることができない1枚のコインで、学校を建てることができたのです。どうしてでしょうか? それは現実ではなく、信仰を働かせたからです。小さな一粒のからし種ほどの信仰があるならば、それは現実に奇跡を生み出すということです。そしてそれは死に対する解決さえ与えるものなのです。

 私たちにも何の足しにもならないコイン一枚のような現実があるかもしれません。それは、経済であるかもしれないし、能力や学力かもしれません。また健康や精神的にも十分でない弱さを覚えることもあるでしょう。でも、それらの現実に対して、私たちは肩を落とすのではなく、主に祈るのです。それは神さまにお委ねするという一粒の種のような信仰の表れです。神さまは不思議な知恵を与え、道を備え、助け手を送ってくださるでしょう。旧約聖書に、カラスがエリヤという人物に肉を運んだという記事がありますが、そんなことが本当にあるのでしょうか? 私は現代でもあると信じています。実際に体験済みです。

心のオアシス 2015年2月22日

 ある教会の牧師の話です。牧師夫婦がスーパーに行くと、おもちゃコーナーから離れない息子さんといつも戦いが起こるそうです。母親がどんなに叱ったりなだめても言うことを聞きません。結局父親が登場することになります。「きっと僕の手からおもちゃを取り上げるんだ」と、警戒の目つきで父親を見つめます。しかし、父親は笑って言います。「おまえは本当にこのおもちゃが欲しいんだね。」自分が願っていることを父親が関心を示すと、子どもは緊張と警戒を解きます。そして父親は続けます。「おまえが欲しがっているおもちゃ、お父さんも見ていいかい?」するとその言葉に素直に従います。父親はおもちゃをよく見てから言いました。「これ、本当にかっこいいね。やっぱりおまえはおもちゃを見る目があるなぁ。でも、ここに小さい子どもが遊ぶおもちゃって書いてあるぞ。」おもちゃに記された対象年齢を見せると、子どもは「本当だ」と言いました。父親が「じゃぁ、これは小さい子のために置いておいて、他のを見に行こうか」と言うと、子どもは何事もなかったかのように父親に素直について行ったそうです。
 
 実は、私たちも、子どものように意地とエゴで凝り固まっているので、自分の願い通りに事が進まなければ、その場でジタバタしてしまうのです。親は子どもの最善を知っている以上に、神さまは私たちが本当に幸せになる道がどこにあるのかをご存知なのです。私たちが状況に振り回されないで、冷静に物事を見極めることができる秘訣は、「神さまの時と時期」を優先し、「神さまのタイミング」に委ねることを学ぶということです。そして「イエスさまなら何とかしてくださる」ことを信じ続けるということです。
 私も今までの人生の中で、さまざまなテスト(試練・訓練)がありました。でも、この秘訣を用い始めるようになってから、心配して悩み続けることがなくなりました。そればかりか、苦難を肥やしにして生きることができるようになりました。悩んでいても何の解決もありません。あなたも、“おめでたい人生”を送ってみられてはいかがでしょうか?!

心のオアシス 2015年2月15日

 朝日新聞に投書されて特集に載ったものをご紹介します。
 「私の母は、私が入試に失敗したので、ガッカリした顔をしています。そういう顔をされると、こちらまでイヤになります。これから一年間、母のあの顔を見るのかと思うと、もう絶望的にさえなります。ところが嬉しいことがありました。近所のオバさんが私が入試に落ちたのを知って私に言うのです。『それは良かった。素晴らしい体験をしたのよ。そういう体験をしてこそ人の心の痛みがわかるようになるのよ。だからめでたいことなのよ。さぁ、お祝いをしましょう。私がご馳走するよ。』ということになって、思いがけないご馳走になりました。私は驚きました。入試に失敗したのにお祝いしてくれるなんて・・・しかし、私はこのご馳走を一生忘れないでしょう。おばさん、ありがとう。」

 この記事を読んだとき、神さまの計り知れない私たちに対するご計画と恵みの世界を感じました。世の中には「勝ち組」とか「負け組」というカテゴリーを作って、「成功者」「失敗者」というレッテルをつけたがります。しかし負け組に入れられたからと言って、本当にそれが失敗なのかをむやみに私たちが判断してはならないでしょう。この世における成功も失敗も、所詮、「今」の状況判断だけであって、その人の人生全体を見てはいないということです。
 讃美歌536番の歌詞が、心に響きます。
① むくいを望まで 人に与えよ こは主の かしこき御旨ならずや 
  水の上に落ちて流れし種も いずこの 岸にか 生いたつものと
② 浅き心もて 事を計らず み旨のまにまに ひたすら励め 
  風に折られしと見えし若木の 思わぬ木陰に 人もや宿さん

 永遠の世界における成功者が、この世においても勝利者であることを聖書は教えています。どうすれば永遠の世界における成功者になれるのでしょうか? 「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」(1ヨハネ5:5)

心のオアシス 2015年2月8日

 「天国のスーパーマーケット」という詩をご紹介します。
 私は人生のハイウェイを歩いていました。ある日、私は「天国のスーパーマーケット」と書いた看板を見つけました。少し近づくと、ドアが大きく開きました。気がつくと天使の案内係がいて、私に買い物カゴを渡してこう言いました。「さぁ、買い物をしてください。人間にとって必要な全てのものがこの店にはあります。運びきれなければ、また来ることができます。」そこで私は店内を歩き始めました。まず初めにいくらかの「忍耐」を取ってカゴに入れました。「愛」は同じ棚に並んでいました。下の方には「理解力」がありました。どこへ行くにも、それは必要です。私は1~2箱の「知恵」と1~2袋の「信仰」を取りました。どこにでもあったので、見逃すことなく「霊」を取りました。私は人生のレースを助けるため「力」と「勇気」を取るために立ち止まりました。この時までには買い物カゴは、いっぱいになってきました。しかし私は続けていくつかの「恵み」が必要だったことを思い出しました。「救い」は忘れませんでした。それは無料なので友人を救うために十分取りました。それから私は主の御心を行なうために全てのものを得たので、買い物の支払いをするためにカウンターへ行きました。通路に来たとき「祈り」を見ました。私は外へ出たとき、罪に走ることを知っていたので、それは必要でした。「平安」と「喜び」は、たくさん置いてあります。それは最後の棚にありました。「歌」と「賛美」は近くにかかっていました。そして、レジの天使に「これで、いくらになりますか?」と聞くと、微笑んで言いました。「ずっと前にイエス・キリストがあなたの請求書を支払われました。あなたが、どこへ行くにも、これらを持っていなさい。」

 イエス様の十字架は、私たちを生かすためのものでした。罪に死ぬ私たちを救うために、その代価を生命で支払ってくださったのです。それ故に、私たちの今があるのです。人間にとって必要な全てのものは、無料で神さまから提供されています。主にあって人生を楽しみましょう!

心のオアシス 2015年2月1日

 人生とは、あなたのためにあるのではないことを忘れてはなりません。あなたが神の目的のために存在しているのであって、その逆ではありません。神が私たちにこの地上の時間をお与えになったのは、天国に入る前に私たちの人格をしっかりと建て上げておくためなのです・・・あなたが永遠の世界に持っていくことができるのは、人格だからです・・・多くのクリスチャンが神の偉大な目的のために生きることよりも、個人的達成感や情緒的安定といったものに甘んじています。これは自己愛であって、弟子訓練ではありません。主イエスが十字架にかかって死なれたのは、私たちが快適な人生を送り、うまく順応して生きていくためではありません。神の目的は、遥かに深遠なものです。神は私たちを天国に連れていく前に、私たちをご自分に似た者に造り変えようとしておられるのです。これこそ私たちの最大の特権であり、直接の責任であり、そしてまた究極の使命でもあるのです。
(リック・ウォレン著「人生を導く5つの目的」より抜粋)

 耳の痛い箇所の抜粋をしましたが、これは聖書的真理でもあるのです。勿論、快適な生活や安定した人生を求めることが悪いとは思いませんが、命懸けで今の時代まで信仰を継承してきた先人たちから見ると「甘い」と一言言われるでしょう。
 私たちは老若男女、どの時代、どんな立場であっても、どんな環境に住んでいる人でも、私たちを振り回そうとする風が、生涯を通して吹いてきます。それは褒められることであったり、そしられること、悪評を受けること、好評を博すことでもありますが、それらが人を有頂天にさせ高ぶらせたり、自信喪失させて落ち込ませたりして、私たちの心を揺すぶる材料になります。悩みや心配事は、一生続くものです。でも、それは、天国に入る私たちの人格を整えるためだというのです。この地上での生活は、天国予備校?のようなものなのかもしれませんね。
 「八風吹けども動ぜず」のような人格を作り上げていくことを、一生かけて成長していくことを神さまは望んでおられるということです。