礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2023年12月17日

 実話をご紹介します。ある時、エリクソン博士の旅行先に、お金持ちのおばあさんが訪ねてきて言った。「私はお金に不自由は全くなく、大邸宅に住んでいます。イタリアから取り寄せた家具に囲まれて、コックが毎日、素晴らしい料理を作ってくれます。園芸は好きですが、身の回りのことは全部メイドがやってくれます。けれども私ほど不幸な者はいません。寂しくて寂しくてたまりません」博士はその話を黙って聞いていた。「わかりました。あなたは教会に行きますか?」「時々行きます」「では、あなたが行っている教会の人たちのリストを作って、誕生日を書き入れてもらいなさい。そしてあなたは、育てた花に綺麗なカードを添えて、誕生日が来た人の玄関前に、置いておきなさい。ただし、あなたからということは知られてはいけません。もしそれで幸せになれなかったら、また私のところにいらっしゃい」と博士は言った。その老婦人は、さっそく試した。朝三時に起きてこっそり鉢を届けるようになると町では「天使が来た!」と評判になった。その人はエリクソン博士に電話をかけて、「宿題は続けています」と報告しました。博士は「あなたは、まだ不幸ですか?」と問うと、老婦人は「えっ、私が不幸だなんて・・・」と返す。「でも、あなたは半年前に、『私は、お金もあるし立派な家もあるけれど、寂しい』と話したではありませんか?」 
 3ヶ月が経ったクリスマスの朝、その老婦人からエリクソン博士にまた電話がかかってきた。「先生、今日のクリスマスほど不思議なクリスマスはありませんでした。門のそばに置いた大きなクリスマスツリーの下に、私の必要なクリスマスプレゼントがたくさん置かれていました。誰から贈られたのかわかりません・・・」エリクソン博士は言った。「是非、受け取ってください。あなたが庭に種を蒔くと、その種は花になってあなたのところに返ってきます。あなたは小さな種をいっぱい蒔いたから、立派な花になってクリスマスに返ってきてくれたのですよ」
 本当の満足は与える時に来るものである。そしてその人の人生の最後に残るものも受けたものではなく与えたものである。実践していきたい。

心のオアシス 2023年12月10日

 先日土曜日に行なった小学生のクリスマス集会は、皆さまのお祈りに支えられて二階のキッズの部屋がいっぱいになる大盛況であった。その前日チャペル前を下校する子どもたちにチラシを配りながら「サンタクロースもくるよ」と声をかけた。すると「それって本物のサンタ?偽物サンタ?」と質問された。私も困りながら「サンタクロースって本物とか偽物ってあるの?」としか返答できなった。あとでそのやり取りを色々と思いめぐらしていた。彼らにとっての「本物」とは何であろうか? トナカイに引かれながらソリに乗って煙突から家に入ってきて寝ている間に枕元にプレゼントを置いてくれるのが本物のサンタなのか? 実は恥ずかしながら私自身は小学校5年生までサンタクロースを信じていた。クリスマスが近くなったある日、「今年のクリスマスは、サンタ何を持ってきてくれるのかな?」と嬉しそう語る私に母は申し訳なさそうな顔で「あのね~もう高学年になったしそろそろ言った方がいいと思うから言うんだけど・・・サンタはいないんだよ。あれは私が置いたの」と告白されショックでしばらく落ち込んだ記憶がある。だから目の前の小学生たちの夢を壊したくなかったので「もしそれが本物だと思っているなら、実は親がサンタになってるだけだよ~」とは言えなかった。
 世の中は何が本物なのか偽物なのかわからなくなっている。「オレオレ」と本物の息子のように装う詐欺師や「人間はアメーバーから偶然に進化した」と何の合理的な証拠もないことを“本物”の説であるかのようにして教えている日本の教育。この世のものを手にいれることが本当の安心や幸せではないことを、既に先人たちや世界の歴史が証明しているのに、未だに「本物」としてそのような考えが蔓延している。今年のクリスマスは、「本物」を掴んでいただきたいと祈っている。
 サンタは私の役目だったが、集会の後で子どもたちから「あれは偽物やった!」と突っ込まれた。聞いてみると彼らにとっての本物のサンタは、お腹がでっぷり出ていて、メガネをしてなくて、髭も薄っぺらい口髭ではないらしい。とにもかくにも楽しい子どものクリスマスであった。

心のオアシス 2023年12月3日

 ここ数ヶ月、ほぼ毎週遠方からお客様が礼拝に来られる。母教会時代に祈って支えてくださった方々や、担当していた学生会の元学生たちである。ありがたいことである。そしてここ数回、礼拝後に講壇から牧師である私が会衆の写真を撮っている。そこには理由がある。特にご高齢の方々は、もしかしたら花園チャペルの礼拝に足を運ぶ最後になるかもしれないので、クリスチャンではないその家族に対するその足跡を残して証としたいからである。「縁起でもない」と批判を受けるかもしれないが、神を信じる者にとって「死」は天国への入口であり、残された者も再会できる希望を持っているので、悲しみはあるが本来は未来への期待に繋がっていることでもある。
人間はいつ召されるかわからない。順番が逆だと思われるようなことも起こり得る。そういう意味においては、毎週のメッセージは私からの遺言のようなものである。「説教とは、まさに今死なんとする者が、まさに死なんとする者の危機感の中で何を語るか」と言われるが、今日召されるかもしれない私が、もしかしたら今日の礼拝が最後かもしれない人に向かって何を語るのかという緊張をいつも覚えながら語っている。
 花園チャペルには、感謝なことに近所の小学生が日曜日は一日中入り浸ってくれているが、その中の一人の女の子が突然教会に来なくなった。登校時の交通安全の旗振りをしているが、その子は2週間登校しなかった。心配になって他の子に聞いてみるが「風邪?」「家の事情?」などとみんな言うことがハッキリしない。この子のために2週間、毎日思い出す度に何度も祈っていた。そして3週間目の火曜日、旗振り時に登校してくる姿を見つけ、私はボランティアを放棄して駆け寄り喜んだ。まだ鼻声ではあったがその子の口から「早く教会に行きたい」との一言。YouTubeで礼拝も視てくれていたとのことで涙が出るほど嬉しかった。天のお父さまの気持ちが少しわかったような気がする。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

心のオアシス 2023年11月26日

 「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(伝道の書3:11)と「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ書8:28)の聖書の言葉は、私がいつも考えさせられる内容である。時として「これも神がなされること?」「こんなことが益になるのか?」と思えるようなことも起こるものである。勿論、人間の罪によってもたらされる試練はある。しかしそれでは割り切ることのできない困難もある。これをどのように解釈すればいいのだろうか?
 私たちはけっこう自分のことに関しては“点”でしか物事を見ることができない。すなわち“今”の時点でどうなのか?ということに拘りを持つ傾向にある。“今”だけを見ると、大きな問題が立ちはだかっていたり、病気であったり、障がいなどが、私たちに希望を持たせなくする。しかし私たちの“今”は“点”でしかない。神さまは奇跡の点の連続(私はこれを「永遠の線」と呼ぶ)に生きておられるお方で、各個人の人生や世界の歴史をすべ治めておられる。もし天地宇宙を造られた神さまに対して全幅の信頼を置けるなら、万事を委ねることができる。
 先週、食道ガン末期状態で余命宣告を受けている私たちの教会の長老さまが、曾孫さんも含めて総勢20名で教会の礼拝に参加された。八十数年間、病気らしい病気になったことがない方が、どうしてこんなことになったのか? 私は神さまに何度も文句を言った。しかし答えは「万事は益」としか返ってこない。「親族全員で礼拝に出席することが夢である」と長老さまは常々語っておられた。それが叶えられる形にはなったが、それだけで“益”だとは思えない。これはただの序章の点にしかすぎないと私は信じている。「彼(イエス)は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び神の御座の右に座するに至ったのである。」(へブル書12:2) 死に至るまで忠実でありたい。

心のオアシス 2023年11月19日

 「問題児で悪魔の子と言われ、誰からも愛されず、悪い悪いと言い続けられ、教会も行かなくなったり追い出されたり。そんなこんなで笑顔も自分らしさも出ず、オドオドしていた私。妹に、自分らしく過ごせる教会あるよ❣️と紹介してもらい『人が寄り付かない、こんな私だけど…人に好かれなくていいから、イエス様に会いに行こう‼️イエス様ならそばに居てくれるはず!!』そう決心して教会の門を叩いたら、沢山の人に歓迎され、可愛がられ、愛され…毎週の礼拝や交わりはイエス様の愛そのものでした。デボーションや、祈り、聖書を読むのが大好きになり、みことばや牧師先生からのメッセージが胸に響けば書き綴り…毎日が変えられていきました。今では教会の中でも、職場でも家庭でもイエス様がそばに居てくださってると確信し安心し自分らしく輝けています❣️主に感謝します❣️」
 私たちの教会へ来られるようになった方がSNSに投稿されている内容を本人の許可を得て掲載させていただいた。一人の人物が悲しみと苦しみの人生を歩んでこられ、主と出会ってから輝いて生きることができるようになったというお証に涙した。重い皮膚病の男がイエスさまのもとにきて「御心でしたら清めていただけるのですが」と話すと、イエスさまは深くあわれみ、手を伸ばして癒されたという記事がマルコ福音書の中にあるが、主はわたしたちの苦難を深く憐れんでくださっていることがわかる。そしてその“憐み”は主を信じ委ねる信仰によって“癒し”へと変えられていくことがわかる。神はすべての人に憐れみをかけておられる。私たちはなかなか気付けないが、実際になくてならぬものをもって毎日を養っていてくださっている。ここに信仰がブレンドされると心までもが満たされていく。
 イエスさまに目を癒された男がパリサイ人に「あの罪人に何ができようか?!」と問うた時、男は答えました。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えると言うことです」(ヨハネ9章) 主は今も生きておられる!

心のオアシス 2023年11月12日

 「権勢によらず、能力によらず、神の霊によって」(ゼカリヤ4:6)は、関西で開拓を始めた当初から握り続けてきた聖書の言葉である。13年前に東大阪の土地に移り住み、助け手もいない、礼拝場所もない、財力もない状況から、ただ手探りだけで伝道を開始した。他教会の牧師先生たちや信徒の方々からは「どうして開拓12年で会堂が建ったのですか?」とよく質問される。多分、開拓のテクニックなどを知りたいと願っておられるのかもしれないが、私の答えは「私にもどうしてなのかわかりません。神さまが必要とされたからだとしか言えません」である。私が途中で諦めたり、つぶれなかったのは、実践面では自分にできることはベストを尽くしてきたが、精神面においては、最初にあげた聖句を握り続けることに加え、一つは「自分の夢を持たない」ことだった。巷では「夢を持て!」と教えられることに逆行することになるが、私はこれが重要なポイントだと考えている。“自分”の夢を持つと、なかなか願い通りにいかない現実に疲れ果ててしまう。しかし“自分”ではなく“神”の夢を持つことによって挫折することはなかった。「神の夢」を持つとは、何であろうか? 「人の魂が救われる」ことだろう。その他の細かいことまではわからなくても良い。神の計画や願いのみが自分の身に起こることを求めることによって挫折することはなかった。そして日々の自分のための祈りは「ただ主の奴隷として、道具としてのみ用いて、神の願いが成就しますように」だけであった。最近は「恥は我がもの、栄えは主のものとしてください」が加えるようになった。“道具”自身は勝手に動いてはならない。使用者の思うままに使用されなければならない。
 イエスさまの弟子たちを調べてみても、能力があったり、財閥であったり、人格的にできている人というわけではなかった。田舎の名も知れない漁師や罪人とされていた取税人であり、このような人たちから全世界に福音が広がるわけがないと思われても仕方のない弟子たちであった。しかしこの小さき人たちを通して全世界に福音は伝えられ、今や世界中にキリストの名は知れ渡った。主権を主に渡すだけで不思議は起こる。

心のオアシス 2023年11月5日

 「主にあって何とかなる!」これは私がメッセージの中でよく発する言葉である。なぜなら多くの人たちは社会や学び舎、家庭の中で“どうにもならない問題”を抱えて苦しみ絶望へと追いやられることがあるからだ。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。」(Ⅰコリント10章13節)とあるが本当にそうなのだろうか? その“試練”が“辛いこと悲しいこと”という意味では、神は人に“越えられない試練”は与えると思う。たとえば重い病気の人に「神さまは乗り越えられない試練は与えないから必ず治るよ」などと簡単に言うのは無責任すぎる。
 すべての苦しみや悲しみを自分の力で越えられるのなら、人間は神を必要としない。神はときとして自分の力では乗り越えることのできない苦しみや悲しみや困難を与えることもあると私は考えている。特に「死」の問題は人間には絶対に越えることはできない。乗り越えられないからこそ神の助けを求めるのである。
 ある方がこんなことを書いておられた「子どものころ、ときどきプラモデルを作りました。でも自分で全部簡単にできてしまったプラモデルよりも、自分ではうまくできなくて父に手伝ってもらってやっとできたプラモデルの方が後々までずっと愛着が残りましたし、何より父との良い思い出になりました。」
 人生は神と一緒に組み立てるプラモデルのようだ。それはとても複雑で難しいかもしれないが、神が用意した完璧なプラモデルはパーツが足りないという事態は起こらない。神と一緒に組み立てていけば必ず完成するようにできているし良い想い出にもなる。だから本当に辛い悲しいことに直面したら「越えられない試練はないんだから越えてやる」と思うよりも、「神さま、私には越えられません。助けてください」と告白してしまう方が良い。実際に私の人生を振り返ってみても神の助けはどの試練の時にもあった。そして人間最大の壁である“死”さえ天国への入口へと変化させてくださったのである。「主にあって何とかなる!」

心のオアシス 2023年10月29日

 上皇后の美智子さまのご実家は敬虔なカトリック信者で、本人もミッション系の学校を卒業しておられるので聖書的な考えで発言されることも多々ある。数年前、乳がんの手術やホルモン療法を受けられて、その副作用と思われる手のこわばりがあったり大好きなピアノも思うように弾けなくなっていらっしゃるようだ。その現実をこのような思いで受け止めておられる。
 「今までできていたことは、“授かっていた”こと。
  今のできないことは、“お返しした”こと。」
 これは私も一生心に留めておきたい言葉だと思った。聖書のヨブ記の中に、「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(1:21)という言葉がある。私たちの肉体も家族も友人も仕事も家も経済のすべては、この地上で生きることができるように神さまが与えてくださったものである。何一つ天国へ持って行けるものはない。すべては神さまからの借り物であると考えることができたら、美智子さまのような悟りが与えられる。だからこそこの地上で与えられているタラント(授かったもの)の使い方が問われる。肉体も神さまからお借りしているものであるなら大切に扱うべきだと思う。そして神さまが喜ばれるために用いるよう心掛けるようになる。そしてタラントを増やして主にお返しする。これがこの地上で私たちが委ねられている使命である。できなくなったことにとらわれず、今まで楽しませてもらったことに感謝しつつ神さまにお返ししていくのが私たちの人生だと考えるならば、 何も悩むことはない。
 私は四捨五入すると還暦になるが、やはり若い頃できていたことができなくなってきたり、体力の衰えを感じたり、老眼が進んだり、色々と支障が出て来る年齢になった。預けられたものを感謝しつつ預けてくださったお方のために精一杯用いて、時がくれば感謝しつつ返納していく。この心を持ち続けることができたら、いつも喜んでいることができる。

心のオアシス 2023年10月22日

 ボランティアで登校時の“旗振りおじさん”を始めてはや一ヶ月が過ぎた。今のところ週に二回であるが、朝の小学生の様々な表情が見えてきた。朝からテンションの高い子もいれば、5分前に起きたばかりで表情がない子もいる。「おはよー」と呼びかけると応答してくれる子が大半であるが、黙ったままの子もいる。信号の待ち時間に旗に興味をもって質問しにきたり、話したことがないのに近寄ってきて「こないだの運動会は熱が出て出れなかった」と報告しにきたり、「コンパスを買っておいてとお母さんに頼んでおいたのに買ってなくて逆切れされた」と大粒の涙を流しながら来る子もいる。チャペルに出入している子たちは、私や恵先生を見つけて駆け寄ってきて「今度教会行けるで~」と予告してくれたり「10月の賛美YouTubeで聴いたで~今回の曲は好き~」と報告してくれる。地域性もあるとは思うが純粋で自分の気持ちをそのまま表現する子が多い。牧師室の冷蔵庫には子どもたちが自発的に書いてくれた感謝の手紙(私はラブレターと呼んでいる)がたくさん貼られている。
 先日もキッズクラスに来ている子どもたちがこんな嬉しいことを言ってくれた。「昨日は教会に来るのが楽しみすぎてなかなか寝れなかった」逆に「教会に早く行きたくて6時に起きた~」という子も。当然、平日はなかなか起きない子が日曜日には自ら起き、家に帰ってきたら教会でのことをキラキラ楽しそうに話す子どもを逆に心配する親御さんもいるだろう。しかしもし私がクリスチャンでなかったとしても、キリスト教会の中身を知っていたら進んで自分の子どもを日曜学校へ送り込むと思う。無料で“生きる意味”や“人生の何故?の対処法”を教えてもらえ、一緒に遊んでもらえ、讃美歌を聴いて歌って音感が養われ興味を持てばピアノなどの楽器まで教えてもらえる。おまけに一般常識まで指導してもらえる。そして輝いて帰ってくるのだから、これ以上の場所はない。
 最近来られるようになった人も「職場では避けられていたけど、教会に来るようになって笑顔が多くなったようで人が声をかけてくれるようになった」と喜びの報告をくださった。主は確かに生きておられる。

心のオアシス 2023年10月15日

 花園チャペルが完成して最初の入堂式礼拝を行なったのが丁度1年前の10月16日。当日の礼拝直前にサタンの攻撃であるかのような妨害があったが、式中神さまに賛美の拍手をしている間に、私にとっては珍しいことであるが、ものすごい形相をした悪魔がもがきながら奈落の底に落ちている幻を見た。その入堂式の終了する頃には問題は落ち着き、それ以降トラブルは全く解消された。つい先日もその問題となった人と教会近くでお会いしたので挨拶すると笑顔で30分も立ち話をされた。 
 この一年間振り返ってみると、サタンの様々な企てがなされていたようであるが、すべてが失敗に終わっている。主が戦っていてくださった。関西カルバリー丸に乗っておられる方々の熱き祈りと信仰とご奉仕、捧げものによって支えられている。これからも主が船長であり、そこに信頼する人たちがいる限り揺すぶられることはない。
 先週は献堂一周年記念聖会で、講師として立てられた倉知契先生(瀬戸CC)によって、「イエスはサマリヤを通過しなければならなかった」(ヨハネ4:4)の箇所から、「主はこの花園の地に教会を建てなければならなかった」とメッセージがあり、私たちの存在の認識を新たにすることができた。ここに集まる人たちのために神さまが建てられたのである。
 まだ土地を買う話題さえもなかった4年ほど前に、リビングライフの巻頭言を依頼され、こう書いていた。「私たちの教会は、まだ自分たちの会堂を所有していません。財力もありません。しかし、神さまが計画されているならば、いとも簡単に会堂が与えられると信じています。主が共におられれば、小さな群れでも大きなことが起こるのです」。会堂が建つことによって私が信じていたことは真実だったことが証明された。私たちの足りない部分を、神さまが様々な方法で補ってくださった。主と共に歩む人生は、恵みが付いて回る。人はどうして神さまを抜きにして歩もうとするのだろうか? 勿体ない話である。
 確かに主は意図して教会を建てられた。応える生き方をしたいものだ。