キッズクラス「心配しない」

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」マタイ6:33

心のオアシス 2018年7月29日

 新聞にアメリカのある小学校の先生が書いた記事が掲載されました。
 その先生は自分のクラスの一年生たちに、感謝祭にちなんで自分たちが何か感謝しているものを絵に描くように言った。しかし正直なところ、この学校に通う子どもたちの家庭は貧しく、感謝するものが何もないかもしれないと思った。ほとんどの子どもたちが、肥った七面鳥か、テーブルに山と盛り上がった感謝祭のごちそうを想像して描いていた。子どもたちなりの夢だったのだろう。ところが、ダグラスが描いた絵は、先生を驚かせた。それは、子どもっぽい単純な線を使った「手」の絵だった。一体誰の「手」なんだろう? クラス全員がこの謎めいた抽象画にすっかり心を奪われた。やがて、一人の子どもがこう言った。「きっと神さまの手だよ。食べ物をその手いっぱいに持ってきてくれるんだ」「ちがうよ。きっとお百姓さんの手だよ。だって七面鳥を育ててるのはお百姓さんだもの」と別の子が言った。生徒たちは思い思いに想像をめぐらしていたが、やがて静かに自習を始めた。先生はダグラスのそばを歩み寄ると腰をかがめ、こっそり話しかけた。「ダグラス、あれは誰の手だったの?」「先生の手」と、ダグラスの消え入りそうな声が返ってきた。先生は休み時間になると、ひとりぼっちでいるダグラスの小さな手をしばしば握ってあげたことを思い出した。特別扱いしたつもりはないが、その手は彼をとても幸せな気持ちにさせたのだろう。
 感謝祭とは与えられたものや好意に対して感謝する日だと思われがちですが、この記事を通してもう一つの意味を発見しました。それはどんなささやかなことでも、人に何かをさせていただけるチャンスが与えられたことに対して感謝する日でもあるのです。大きな何かをしなくても、日々の小さな親切の積み重ねが、大きな感動へと繋がっていくのです。そして、人に何かをさせていただけることこそが、本当に感謝なことなのだと気付くべきなのです。
 「わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈る」(ピリピ1:3)

【メッセージ】2018年7月22日 「心配には意味がない」

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マタイによる福音書6章31~34節

キッズクラス「主の祈り」

天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。

心のオアシス 2018年7月21日

 「八風吹けども動ぜず」という言葉をご存知でしょうか? この言葉の意味は、「自分を惑わす出来事に動じず、強く心の根を張ろう」です。
 自分を惑わす「八風」とは、どのような風なのでしょうか?
 一つ目は、「利」(り)=自分の意にかなう利益のこと。
 二つ目は、「誉」(よ)=陰で名誉を受けること。
 三つ目は、「称」(しょう)=目の前で称賛されること。
 四つ目は、「楽」(らく)=様々な心身を喜ばすこと。
 五つ目は、「衰」(すい)=意に反する損失のこと。
 六つ目は、「毀」(き)=陰で不名誉を受けること。
 七つ目は、「譏」(き)=目の前で中傷されること。
 八つ目は、「苦」(く)=様々な心身を悩ますこと。
 誰でも褒められたら嬉しいですし、けなされたら傷つきます。苦しいことだけに限らず、楽しい事、嬉しいことでも、慢心を生み、有頂天になってしまい、結果として私たちの心を動揺させるものです。このような八つの風に毎日揺すぶられながら高慢になったり、劣等感に陥ったりしながら、周りの環境に影響されながら人は生きています。新約聖書の中でパウロは、「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている」と言いました。人生の八つの風に対処する方法は、自分は神の目的の為に創造された存在だということをハッキリと認識するというだと思います。そこに立ち続けるならば、何が起こっても動揺は軽減されます。
 今月で、レストランIMUも、堺チャペルも1周年を迎えました。運命共同体のレストラン教会です。この一年間、牧師にも店長にも“八つの風”が吹きました。しかし、平安があるのです。何故なのかを考えてみました。するとわかりました。結局、「主は与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな。」「生きるも死ぬも主のため」と腹をくくると、何も恐れることはなくなるのです。私たちは、神さまに与えられた“自分”を用いてベスト尽くし、結果は神さまにお任せするのみなのです。