心のオアシス 2019年2月24日

 マクドウェル氏が12歳の時の出来事を回想録にこう書いていました。
 私はリトルリーグの準備をしていました。初試合が始まる前、父は、「コーチ、子どもたちにアイスクリームを食べさせてあげてください」とアイスクリーム券をコーチに差し出しました。「どうもありがとうございます。初勝利をあげたら、食べさせましょう」とコーチがにっこり笑って答えると、父は頭を横に振りながら言いました。「最初の試合に負けたら食べさせてあげてください。」コーチは、けげんそうに父を見つめました。「コーチ、私は子どもたちが勝つよりも、努力したことを認めてあげたいのです。そして、何よりも、子どもたちが神の似姿に造られた存在であることを喜びたいのです。それは、野球の勝敗とは何の関係もないことです。息子が一生勝てなかったとしても、わたしは息子を変わりなく愛して受け入れるつもりでいます。」その日、私は父が無条件に私を受け入れてくれることを悟りました。
 負けたチームに賞を与えるのは、実におかしなことですが、聖書を学びながら思うことは、神のやり方は、もっとおかしいということです。どうして神を忘れ自己中心に生きる人類を、見捨てることをせず次なる救いと祝福の道を備えられ続けるのか? 何故に何度も裏切るイスラエルの民を諦めずに赦し続け、受け入れることができるのか? イエスさまの弟子たちは、人格者であったり優秀と言えるような人は見当たらないばかりか、いざという時、すぐイエスさまを見捨ててしまうお粗末な存在を、どうして愛し通されたのか? そして神さまの御心と愛を拒絶する、所謂「神の敵であった私たち」のために、罪のさばきの身代わりになるために、この地上に来てくださり十字架にかかり死んでくださいました。これらの神さまの行為は、意味不明です。でも、それが究極の愛の形だということが言えます。条件に適合していれば愛し、そうでなければ愛さないというのは、それは本当の愛ではありません。 
 「しかしまだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示された。」ローマ5:8

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