私は最近、一つの悟りが与えられ、他者に対してより一層寛容になることができるようになった。今までは、成長を願う一心もあったが、自分ができることは、他者もできるはずと思い、自分の拘わり通りに物事が動かないと、ストレスになることが多かった。しかし神さまは、ご自分が造られたすべての物を見たところ「はなはだ良かった」と言われました。最初は、「はなはだ良かった」ところからのスタートだったのです。これは100点満点中、1000点からの出発だと考えることができるように思いました。だからこそ、神さまは罪に落ちた人間を、そして何度も神さまを裏切るイスラエルの民を赦し愛し続けることができたのではないかと思う。もし100点からのスタートならば、いつも減点ばかりの私たちに対して、満点でない腹立たしさが起こるでしょう。例えば、親は子に100点であって欲しいと願います。でも50点や60点しかできなければ、足りない部分を見て責めることになります。でも、千点からのスタートならば、少々足りない部分があっても満点以上の存在なのです。その存在だけで、生かされているだけで満点だと考えるようになったら、感謝が溢れるようになりました。
 もう一つ、他者に寛容になれる秘訣は、自分がどれほど罪深い存在であるかを自覚するということです。サムエル記の学びをしながら感じたことは、ダビデは、自分の部下に裏切られても、息子のアブサロムが反逆した時も、シメイがのろいながら石やチリを投げつけてきた時も、寛容であり続けることができました。それは、今、自分がそのような状況になっているのは、他者が悪いのではなく、すべては自分の“罪”のせいだと考えていたからです。故に今生かされているのは、ただ神の恵みだとダビデは考えていました。これはダビデの言葉です。「彼がのろうのは、主が彼に『ダビデをのろえ』と言われたからであるならば、だれが、『あなたはどうしてこういうことをするのか』と言ってよいであろうか・・・彼を許してのろわせておきなさい。主が彼に命じられたのだ。主はわたしの悩みを顧みてくださるかもしれない。」(サムエル記下16章10~12節)