多くを持っていても常に不足を感じ、持っていなくてもいつも満足することができる人の違いとは何であろう? かつてインドネシアで宣教しておられた安海靖郎先生が、このようなお話をしておられた。
 ある経営者がいて、その奥さんはクリスチャンなのですが、イエス様の話をしても全く聞く耳を持ちませんでした。とても頑固な人で、自分は何でも知っていると思っていました。経営する会社は、海外にも支店がいくつかあって、インドネシアにある支店に訪れたときに、ボルネオのジャングルに行きたいとのことで、そこに当時住んでいた安海宣教師が紹介され、3日間共にジャングルで過ごして日本に帰っていきました。
 しばらくしてから、安海先生は手紙を受け取りました。それはあの頑固な社長さんがイエス・キリストを信じて洗礼を受けたというのであります。その経緯はこのようなことでした。この社長さんの会社は海外にもあって、駐在員を派遣しているけれども、その家族と会って話しをすると、大きな家が与えられていても治安が悪いと不満を言い、お手伝いさんがついていても盗みがあるなどと不平しか聞いたことがありませんでした。しかし、3日間、安海先生と過ごして、何もない所で、先生は朝から歌を歌い、喜んでいる姿を見ました。日本に帰って考え込んだというのです。自分はすでに50歳代で、一応この世のすべてのことを知っていたつもりでしたが、まだ知らない世界があるのだと思いました。そして奥さんから聖書をもらって読み始めて、神の国の世界を知ったということでした。
 今回、関西を通過した台風21号は今まで経験したことのない規模のものでした。「ウチは洪水になっても水没することはないし、安全だ」と、今まで思っていました。しかし今回、電気と水道が供給されなくなるだけで、どんな場所に住んでいても、使い物にならなくなることを思い知らされた。立派な建物はあっても、外泊を余儀なくされたのです。私たちは、地位や名誉をまとった立派な人間かもしれません。でも、生命の源なる神さまの供給がなければ、ただの生ける屍にしかすぎないのです。