ある朝早くひとりの老人が病院にきました。看護師が老人の対応をしました。血圧と体温を測りながら「今日は先生の診察まであと1時間はかかりそうです」と言いました。しかし、老人は「できれば急いで欲しい」と言いました。看護師は「何か急ぐような約束を医師としていますか?」と尋ねました。老人は答えました。「いいえ、でも妻と一緒に朝食をとるために介護施設に行かなければならないんです」老人の妻はアルツハイマーにかかって介護施設で生活しているのでした。看護師は尋ねました。「少し遅れたくらいで奥様は心配なさるんですか?」「いいえ、妻は5年前から私が誰だか分からないのです」と老人は答えました。看護師は驚いた様子で再び尋ねました。「奥様はあなたのことがお分かりにならないのでしょう? それでも一緒に朝食をとりに行かれるのですか? 何のためですか?」老人は微笑んで答えました。「妻は私のことを忘れ覚えていないけれど、私は妻のことを知っているんだよ」
 この文章を読みながら、故ハ・ヨンジュ先生がかつて、「神さまの片思い」とおっしゃっておられたことを思い起こしました。私たちは、神さまのことを忘れることも裏切ることもあるでしょう。全く関心がないかもしれない。でも、神さまの側は、私たちが、今、どのような状態であるかは関係なく、一方的に愛してくださっているのです。
 このアガペー(無条件の愛)があるからこそ、私たちには本物の平安が約束されているのです。いつも神さまの顔色を見て、愛されているかそうでないかを伺いながらビクビクしながら生きる必要はないのです。
 ある人は言いました。「神が愛ならば、どうして私はこんな目に遭うのですか?」それは、人間が頭の中で勝手に想定した神が理屈に合わなかっただけで、人間の理性を越えた神の存在を否定することはできないのです。あなたがもし、自分の願望を叶えてくれるのが神の働きだと考えているならば、そのような“神”は存在しないということなのです。
 聖書の神は、人類における様々なマイナスさえも用いて神の計画を進め、私たちを最善に導こうと願っておられるのです。「神は愛なり」