強制収容所での生活を送った私たちには、忘れられない仲間がいる。誰もが飢えと重労働に苦しむ中で、みんなに優しい言葉をかけて歩き、ただでさえ少ないパンの一切れを身体の弱った仲間に分け与えていた人達だ。そうした人達は、ほんの少数だったにせよ、人間として最後まで持ちうる自由が何であるかを、十分私たちに示してくれたのだ。あらゆるものを奪われた人間に残されたたった一つのもの、それは与えられた運命に対して自分の態度を選ぶ自由、自分のあり方を決める自由である。
(ビクター・E・フランクル著『夜と霧 ―ドイツ強制収容所の体験記録―』より)
 
 通常、私たちが考える“自由”とは、自分の願い通り、欲求に従って言動できることがそれだと思っている。しかし、深く突き詰めていくと、このような“自由”がまかり通る世界になってしまったら、大変なことになるということに気がついた。なぜなら、人それぞれの願いや欲求は違うからです。人を傷つけたり、殺したいと願っている人の思いが実現できる“自由”があるなら、私たちは外を出歩けなくなるでしょう。アダムとエバが、自己実現に生き始めた時から、この世に殺人、一夫多妻、争い、復讐の文化が入ってきたことが創世記に記されています。私たちに与えられている“自由”の使い方によっては、物事が円滑に進んだり、上手くいったり、問題が生じたり、混沌とした世界になっていくということでしょう。
 以前にある方から「クリスチャンになると酒もタバコもできなくなって自由が制限されるから嫌だ・・・」と言われたことがあります。大酒以外の酒やタバコを禁止するような教えは聖書の中にはありませんが、私は思いました。「酒やタバコがないと生きていけないなんて可哀想だな~」なくても楽しく生きることができる“自由”に感謝しました。
 イエスさまは、自分に与えられている“自由”を、神実現のために用いました。肉の欲求はありました。しかし、神の欲求に答えられたのです。そこに人類に対する救いと希望が与えられ、主ご自身も神の右の座につかれるという栄光をお受けになられたのです。ハレルヤ。