昔々、あるところに、歳を取った母と五作という息子が、二人で暮らしていました。ある日、母が「お前のお父が生きておった頃、よくマクワウリを買ってきてくれたもんじゃ。ありゃうまかった」と言いました。五作は、母のそんな話を聞いて、近所の畑からマクワウリを盗んでしまったのです。何も知らない母親は、うまいうまいと言ってマクワウリを食べました。しばらくして、母親が「もう一度だけマクワウリを食べたい」と言うので、五作は再び畑に盗みに入りました。けれど運の悪い事に、畑の主人に見つかってしまったのです。怒った主人は持っていた刀で五作の肩を切り付け、その場に五作を残して去っていきました。次の日、畑の持ち主はすっかり後悔し、ウリの一つや二つ盗んだくらいで、刀で切りつけるなどと、あまりにひどいことをした。そう思いながら、五作の家への道をやってくると、村人たちがお地蔵さんの前に集まっていました。なんとお地蔵さまの肩のところに、刀で深く切られた跡がありました。畑の持ち主は大急ぎで五作の家へ行き、無傷の五作を見て驚きました。彼は五作の手を引っ張って、お地蔵さまのところへ連れていきました。五作はお地蔵様を見て涙を流しました。「ああ、このお地蔵さまが、わしの身代わりになって下さったのか、お地蔵様ゆるしてくだせぇ」そう言ってガックリと膝をつくと、お地蔵さまに謝りました。
やがてこの話は広まって、このお地蔵さまは『身代わり地蔵』と呼ばれて、人々から敬われ、慕われたということです。
 これはおとぎ話ですが、聖書には、今から2千年前、実際に『身代わり』になったお方のことを描いています。顔はつばきを吐きかけられ、平手で打たれつづけ、頭にイバラの冠をかぶせられ、手足はクギで打ち付けられ、十字架でさらし者になりました。見るべき姿なく、威厳もなく、私達の慕うべき美しさもなく、顔を覆って忌み嫌われる者のように彼は、侮られたと記録されています。そのお方の名前は、イエス・キリストです。十字架の醜さは私たちの罪の姿であり、私たちの罪の「身代わり」として受けられた姿だったのです。ハレルヤ!主よ感謝します。