ある学園祭の展示物の中に、クツが何十足もずらっと並べて置いてあるものがありました。そのタイトルは「人生は苦痛(クツー)の連続である」と書いてあったそうな。私は、「人生は奇跡の連続である」と感じています。私たちは、毎日の生活を当たり前のようにして生きています。朝目覚め、トイレに行く。シャワーを浴びる。朝食を食べる。仕事に出かける。他者と言葉を使ってコミュニケートする。日が出て、日が沈み夜となる。そして休む・・・果たしてこれらのことは、当然のことなのでしょか? 同じことをしているように見えますが、その日常さえも奇跡ではないかと思うのです。自分の心臓であっても、その鼓動の回数を自分自身で制御することはできません。でも、生き動いています。どうして、動いているのでしょうか? 呼吸は考えなくてもしています。旧約聖書の創世記2章の中に、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。」と記録されています。まさに「偶然」よりも、「神による必然」しか、人間の生を説明することはできないように思います。そして日々の当たり前は、神の奇跡の連続であると確信しています。もし、このことを信じることができたら、当たり前が感謝と喜びに変わることでしょう。
 中国の伝説上の堯邸という皇帝の時代にずっと平和が続いていたそうです。ところが一人の老人が、こう歌いました。「日が出れば働き、日が没すれば休む。井戸を掘って飲み、田を耕して食べる。皇帝の力など私には無関係」。この老人が言うことは、もっともらしく聞こえます。しかし、見逃してはいけないポイントは、皇帝が、その国を治めていたからこそ、平和の中で、この老人は働くことができたということなのです。皇帝の力の恩恵にあずかっていることに気づいていなかったのです。
 私たちは、自分の力で生きていると考え、毎日の出来事が偶然とか運命だと考えるならば、そこには何の希望も見出すことはできません。しかし、神に生かされていると信じることができるなら、どのような現実の中にあっても希望を見出すことができるのです。なぜなら神さまは私たちに最善以下は成されないお方だからです。信頼すれば安心なのです。

 「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」(ピリピ4:11)