心のオアシス

心のオアシス 2018年7月15日

 強制収容所での生活を送った私たちには、忘れられない仲間がいる。誰もが飢えと重労働に苦しむ中で、みんなに優しい言葉をかけて歩き、ただでさえ少ないパンの一切れを身体の弱った仲間に分け与えていた人達だ。そうした人達は、ほんの少数だったにせよ、人間として最後まで持ちうる自由が何であるかを、十分私たちに示してくれたのだ。あらゆるものを奪われた人間に残されたたった一つのもの、それは与えられた運命に対して自分の態度を選ぶ自由、自分のあり方を決める自由である。
(ビクター・E・フランクル著『夜と霧 ―ドイツ強制収容所の体験記録―』より)
 
 通常、私たちが考える“自由”とは、自分の願い通り、欲求に従って言動できることがそれだと思っている。しかし、深く突き詰めていくと、このような“自由”がまかり通る世界になってしまったら、大変なことになるということに気がついた。なぜなら、人それぞれの願いや欲求は違うからです。人を傷つけたり、殺したいと願っている人の思いが実現できる“自由”があるなら、私たちは外を出歩けなくなるでしょう。アダムとエバが、自己実現に生き始めた時から、この世に殺人、一夫多妻、争い、復讐の文化が入ってきたことが創世記に記されています。私たちに与えられている“自由”の使い方によっては、物事が円滑に進んだり、上手くいったり、問題が生じたり、混沌とした世界になっていくということでしょう。
 以前にある方から「クリスチャンになると酒もタバコもできなくなって自由が制限されるから嫌だ・・・」と言われたことがあります。大酒以外の酒やタバコを禁止するような教えは聖書の中にはありませんが、私は思いました。「酒やタバコがないと生きていけないなんて可哀想だな~」なくても楽しく生きることができる“自由”に感謝しました。
 イエスさまは、自分に与えられている“自由”を、神実現のために用いました。肉の欲求はありました。しかし、神の欲求に答えられたのです。そこに人類に対する救いと希望が与えられ、主ご自身も神の右の座につかれるという栄光をお受けになられたのです。ハレルヤ。

心のオアシス 2018年7月8日

 アブラハム・リンカーンの略歴です。
 1816年 リンカーン一家は家の立ち退きを迫られ、家族を養うために働き始める
 1818年 母親死去
 1831年 共同経営の店が倒産
 1832年 イリノイ州議会に立候補し落選し失業
       法律学校を受験し失敗
 1833年 友人から借金をして新しい商売を始めるが同年中に倒産
       17年かかって借金を返済する
 1834年 再び州議会に立候補し当選
 1835年 婚約するが相手の女性が死亡し、失意のどん底に
 1836年 極度の神経衰弱に陥り半年間病床につく
 1838年 州議会議長に立候補し落選
 1840年 大統領選挙人に立候補し落選
 1843年 連邦下院議員に立候補し落選
 1846年 再び連邦下院議員に立候補し当選
       ワシントンに移り、業績をあげる
 1848年 連邦下院議員の再選をめざすが、落選
 1849年 国有地管理局長の職を逃す
 1854年 連邦上院議員指名投票で落選
 1856年 共和党大会で副大統領候補としての指名を狙うが落選
 1858年 連邦上院議員指名投票で再度落選
 1860年 アメリカ大統領に選出される

 「何かやろうと決めたら、途中でやめてはいけない、と誰でも思っている。努力することが、人生において我々に与えられた義務だからである。私はその義務を果たすようにとの神の声を聞いた。」(リンカーン)
 彼の執務室の机の上には、いつも開かれた聖書が置いてありました。

心のオアシス 2018年7月1日

 先日の礼拝前に、私が教会メンバーのNさんとお話しをした時、神さまが、その方の人生に深く関わっていてくださっていること知り大変感動しました。Nさんは、何年も前にした脳の手術の後遺症で、頭痛や痺れなど長年苦しんできました。そんな中、イエスさまと出会い、今から7年前、私たちの教会で洗礼を受けられました。それでも当時は、「どうして私だけが、こんな苦しみにあわなければならないの? 神さまは不公平・・・」と文句ばかりを言っていたそうです。そして自暴自棄になった時期もありました。しかし最近、こう思えるようになったそうです。「この苦しみがあったからこそ、自分は神さまに出会うことができた。もし痛みがなければ、今も神さまを無視して自分勝手な道を歩んでいたと思います。今胃の調子も悪くて近々検査をしますが、胃がんであったとしても感謝できます。」牧師としては、苦しみを取り、癒されるように毎日お祈りしていますが、癒されるまでの期間を感謝しながら歩むことができる人生は、他者にも感動を与えるのだと学ばされました。他にも闘病しながら同様に感謝しながら力強く歩んでおられる方々がいらっしゃいますが、これこそが神の存在を知る者の特権だと思わされています。
 私はすべての病が必ず癒されることを信じて、希望を持って祈り続けている牧師です。その癒しをいただくまでの生き方を神さまは勿論、人々も注目しています。どのように生きるかが大切だと思いました。
 フランクリン・ルーズベルト大統領のファーストレディーでアメリカ史上最も尊敬される女性として選ばれたエレノアさんは、「今、あなたが苦しく辛いのは、外的要因ではなく、あなた自身がその状況にあって苦痛と感じることを選択し、それに屈服したからです。」と語っています。辛ければ辛いし、痛ければ痛いですが、同じステージの上に立っていて、神と世を呪って生きるのか、感謝しながら生きるのかで、その人の人生は大きく変わってくるということです。そしてその人の周りへの影響も大きく違ってきます。願わくは感謝の人生でありますように。
 「いつも喜び、絶えず祈れ、すべての事に感謝せよ。」(聖書)

心のオアシス 2018年6月24日

 昔々、あるところに、歳を取った母と五作という息子が、二人で暮らしていました。ある日、母が「お前のお父が生きておった頃、よくマクワウリを買ってきてくれたもんじゃ。ありゃうまかった」と言いました。五作は、母のそんな話を聞いて、近所の畑からマクワウリを盗んでしまったのです。何も知らない母親は、うまいうまいと言ってマクワウリを食べました。しばらくして、母親が「もう一度だけマクワウリを食べたい」と言うので、五作は再び畑に盗みに入りました。けれど運の悪い事に、畑の主人に見つかってしまったのです。怒った主人は持っていた刀で五作の肩を切り付け、その場に五作を残して去っていきました。次の日、畑の持ち主はすっかり後悔し、ウリの一つや二つ盗んだくらいで、刀で切りつけるなどと、あまりにひどいことをした。そう思いながら、五作の家への道をやってくると、村人たちがお地蔵さんの前に集まっていました。なんとお地蔵さまの肩のところに、刀で深く切られた跡がありました。畑の持ち主は大急ぎで五作の家へ行き、無傷の五作を見て驚きました。彼は五作の手を引っ張って、お地蔵さまのところへ連れていきました。五作はお地蔵様を見て涙を流しました。「ああ、このお地蔵さまが、わしの身代わりになって下さったのか、お地蔵様ゆるしてくだせぇ」そう言ってガックリと膝をつくと、お地蔵さまに謝りました。
やがてこの話は広まって、このお地蔵さまは『身代わり地蔵』と呼ばれて、人々から敬われ、慕われたということです。
 これはおとぎ話ですが、聖書には、今から2千年前、実際に『身代わり』になったお方のことを描いています。顔はつばきを吐きかけられ、平手で打たれつづけ、頭にイバラの冠をかぶせられ、手足はクギで打ち付けられ、十字架でさらし者になりました。見るべき姿なく、威厳もなく、私達の慕うべき美しさもなく、顔を覆って忌み嫌われる者のように彼は、侮られたと記録されています。そのお方の名前は、イエス・キリストです。十字架の醜さは私たちの罪の姿であり、私たちの罪の「身代わり」として受けられた姿だったのです。ハレルヤ!主よ感謝します。

心のオアシス 2018年6月17日

 私は中学2年生の時に教会通いが始まり、3年生に上がるやいなや受洗しました。聖書を読むようになってから、人生観が変えられ、自分の存在価値を発見することができて、喜びに溢れたのを今でも忘れることができません。こんなに素晴らしい人生が与えられるのであれば、友人たちにどうにかして伝えたいと思っていましたが、口下手な私では的確に伝えることはできず、ただ祈るしかありませんでした。しかし当時の部活(テニス)仲間には、私がクリスチャンになったことは知られていて、数名は教会へ来てくれたりはしましたが、そのまま時は過ぎていきました。あれから40年過ぎて驚いたことは、なんと中学では2年の時と3年の時に、それぞれクラスメイトだった2名がクリスチャンになっていて、感動の再会があったということです。私が牧師になっていることを知って自己申告してこられました。高校時代の同窓生の中には牧師になって現在関東で牧師をしている人もいます。あの時の小さな祈りに対して、神さまは一筋の灯火を与えてくださっているように思います。
 バウンズ師は、「祈りは不朽のものであって、これをささげた唇は、死のために閉じ、それに感動した心臓は、鼓動を止めても、祈りは神の前に生きている。」と言いました。私の祖父はクリスチャンでした。自分の子供たち家族の救いのために祈っていましたが、生前にそれを見ることはなく召されていきました。でもその死後から不思議なことが起こり、子供3人が全員神さまを信じ、孫である私まで、その恵みが及びました。
 「神さまの沈黙は涙だ」とある書物に書かれていましたが、もし、悲痛な祈りをしても何も起こらない時、それは神さまが涙を流しておられる時なのだということです。イエスさまが、十字架上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?」と叫ばれた時、父なる神さまは何もされませんでした。私たちに対する救いを成就するために涙しながら耐えておられる時間だったのです。
 「神のなされることは皆その時にかなって美しい・・・人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(伝道3の11)