心のオアシス

心のオアシス 2019年1月13日

 完璧主義の陥る危険性について、先週からお分ちしています。今日は、第二回目「親の完璧主義が子どもに与える影響」です。

 完璧主義の親は、子どもに「失敗してはダメだ」「もっとがんばりなさい」「最善を尽くさなければならない」「まだ少し足りない」という言葉で限りなく要求します。すでに達成した成果については、励ましたり認めたりしません。表現したとしても微々たるもので、強調して伝えることは「さらに努力しなさい」というメッセージです。そのため、完璧主義の親は、子どもがどんなに頑張っても、称賛せず、満足感を伝えません。過剰な期待を持ち、さらに努力して最高の成果を出すよう要求し続けることが、完璧主義の特徴です。
そのような完璧主義の親のもとで育った子どもは、満足され、認められ、褒められ、励まされることに飢え乾いています。初めは自分でも最善を尽くして親の期待に応えようとしますが、だんだん手に負えなくなります。心の中で「私はダメだ」「私はいつもこうなんだ」「親を喜ばせることは不可能だ」と考えるようになり、結局は自暴自棄になってしまいます。そして、自分自身に怒りと挫折感を感じたりもします。そして、限りなく完璧を求める親に憤りを感じるようになります。完璧主義の親が子どもに与えるメッセージは、子どもに測り知れないストレスと傷を与えるということを知ってください。限りない期待と要求ではなく、子どもの小さな達成に対しても、惜しみなく称賛と励ましを表現する親になりましょう。(トーチ・トリニティ神学大学教授・イ・キボク)

 親は子どもを褒めているような気になっているかもしれませんが、子どもからすると9の要求に対して1しか称賛されていないと感じているようです。もし神さまが私たちの足りない部分を毎回指摘されたら、やってられなくなりますよね。愛し育てる“愛育”によって本心から自発的に動けるようになるのです。存在してくれているだけで感謝!と考えれば、要求することも少なくなると思います。親のエゴ(親実現)は、子どもに傷と反発を生み出します。やはり神実現に尽きますね!

心のオアシス 2019年1月6日

 トーチ・トリニティ神学大学教授のイ・キボク先生が、私たちが陥るある危険について的確に文章に書かれていましたので、何回かに分けて抜粋してご紹介します。私たちの生き方の指針になればと願います。
 
 恵みとは何でしょうか。恵みを理解することは簡単ではありません。なぜなら、この世はすべて“恵みでないもの”によって動いているからです。この世は、成功し、満足を得るために、努力本位、成果本位、功績本位、資格本位によって動いています。しかし、恵みの法則は全く違います。恵みとは、「それを受ける者の資格とは全く関係なく」与えられる愛とあわれみと祝福を意味するものです。ただ恵みを施される方の一方的な品性のゆえに与えられるものなのです。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことはなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペソ2:8~9)では、恵みを受けることができる信仰とは何でしょうか。それは行いではありません。信仰とは、神さまが与えてくださる恵みを、ただ謙虚に受け取る姿勢でもあるとも言えます。その恵みにお返しをする方法はありません。恵みを受けた人は、ただ感激と感謝をささげるだけです。その結果、恵みを受けた者として、主の御心に従って生きるようになるのです。
 私たちの家庭の中には、知らず知らず完璧主義が働いています。完璧主義は、「何の失敗もなく最高レベルで、すべてのことを完璧にすること」という非現実的な期待のようなものです。それは、私たち人間の弱さと限界を認めないことに起因しています。神さまは、弱く失敗する私たちを愛してくださっているという恵みを忘れることです。私たちは人間なので、不完全で失敗するしかありませんが、神さまの恵みと助けに拠り頼んで生きていくとき、素晴らしい人生を歩むことができるということを忘れてはなりません。恵みの反対が、完璧主義なのです。

 次週は、親の完璧主義が子どもに与えている影響をお分ちします。
 「キリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。」(Ⅱテモテ2)

心のオアシス 2019年1月元日

 昔、イギリスのある変わり者のバイオリニストが演奏会を開きました。友人をはじめ、観客がたくさん集まり、演奏が終わると、熱烈な拍手が起こりました。その瞬間、彼は演奏していたバイオリンを急に床に投げ捨てて足で壊し始めました。彼が再びもう一つのバイオリンを持ってくると、司会者が言いました。「今、彼が演奏したバイオリンは、実は20ポンドの安物でした。今から最高のバイオリンで本格的な演奏を始めていただきましょう。」今度の演奏もまた大きな感動を呼び起こしました。しかし、正直言って、観客はその2つの演奏に大きな違いを感じることができませんでした。この日、バイオリニストの奇行を通して観客に伝わったメッセージは、「偉大な音楽家が偉大な音楽を作り出すのであって、偉大な楽器が偉大な音楽を作り出すのではない」ということだったのかもしれません。
 イエスは人を通して世を変えようとされました。イエスの公生涯は、イエスが用いる人を選ぶことから始まりました。しかし、その選択基準は、世とは全く異なっていました。イエスは、ガリラヤの漁師やさげすまされていた取税人のように、世の中で何一つ自分を誇ることができない人々を神の国の柱のような存在として用いられました。イエス・キリストは今も弟子たちを呼んでおられます。私たちに弱さや咎があっても、主の御手に捕らえられるなら、神の栄光が現れ、世が変わり始めるのです。(わかりやすく解いたマルコの福音書の話(上)/イ・ドンウォン著)

 聖書的に言うならば、私たちは土の器のような存在です。離せば落ちて、落ちれば割れてしまう器であっても、誰の手の中にあるかということによって、その価値は変わってくるのです。イスラエルの民が40年間砂漠をさまよう中で生き延びることができたように、2019年は、是非、神の手の中にある安心を手にしていただきたいと願っています。たとえあなたが、神を知らなくとも、神はあなたを知っていて、一方的に大切に思っていてくださっているのです。良き一年となりますように。

心のオアシス 2018年12月30日 

 今年も残り少なくなりました。この時期になるといつも一年を振り返って感謝を神さまに捧げるようにしています。そしてその感謝は、関西で開拓を始めた8年前にさかのぼります。当初は、礼拝できる集会所の一室があり、3人の方が来てくださることに感謝していました。それから毎年のようにして不思議なことが起こりました。子どもの数が少しずつ増えてきた時に、道本賢司先生が、「是非とも開拓をお手伝いさせてください!」と自ら私たちの教会に飛び込んでこられました。教会のホームページを充実させる必要が出てきた時に、その道の達人が教会に加えられました。集会所から追い出される事態になった時、藤長先生が快く東大阪福音教会の石切チャペルを貸してくださいました。そして遠い未来の夢であった聖歌隊がこんなに早く結成されようとは想像していませんでした。娘が牧会を手伝ってくれるようになってヤングチャペル(中学生礼拝)会や青年会が出来上がり、礼拝の音楽の奉仕などを中高生が仕切るようになるとは、夢のまた夢でした。そして礼拝前に強制的?にコーヒーをサービスする教会になるなんて、これも想定外でした。関西聖書学院から毎年神学生が派遣されて助けてもらえるようになりました。ダンディーな男性たちの有志がカルテットを、愛らしい子たち?のフラダンスチームも結成されました。昨年には役員の方々が選出され、堺にレストラン教会まで与えられました。表ばかりの奉仕だけではなく、裏で祈ってくださり、静かに礼拝に出席される方、チラシを配ってくださる方、献金をしてくださる方、誰に言われるわけでもなく掃除をしたり、ゴミを持って帰ってくださる方々、その他様々な方々の働きによって、教会は支えられています。開拓当初はすべて私一人でしていましたが、神さまが必要な時に、必要な存在を周りに置いていてくださっていることに不思議を感じ、感謝が尽きません。
 私たちの歩みは、誰かによって支えられていて、その背後に神さまの手の働きがあるということを知る必要があると思います。今年も奇跡の連続でした。そして新しい年も、それは継続するでしょう。良いお年を!

心のオアシス 2018年12月16日

 1897年、バージニアという8歳の少女から、「サンタクロースって本当にいるの?」いう質問の手紙を受け取った「ニューヨーク・サン新聞」の記者は、それに対して新聞社の顔ともいうべき社説に、その答えを書きました。それが、世界中で大反響を呼び、世界で最も有名な社説のひとつとなり、本にもなりました。やりとりの内容はこうです。

ニューヨーク・サン紙さま
わたしは、8才の女の子です。私の友だちは「サンタクロースなんていない」と言います。パパに聞いたら「もしサン新聞の記者さんに聞いて、サンタクロースが本当にいると言われたら、そのとおりだと思うよ」と言いました。だから本当のことを教えてください。サンタクロースは、本当にいるのですか? バージニア・オハロン 西495番街115番

バージニアへ
君の友だちは、まちがっていますよ。その子たちはきっと、疑い病にかかっているのだと思います。人は自分に見えるものだけしか信じないし、自分の小さな心で理解できないことは何でも否定してしまいます。
 もし、サンタクロースがいないとするならば、あなたは手に触れられるもの、目に見えるもの以外で、幸せを感じたことはないですか? 目に見えなくても、手に触れられなくても、幸せって感じられるはずです。ひょっとすると、それがサンタクロースなのかもしれませんね。
1897年12月24日 ニューヨーク・サン紙

 “信仰”とは、現実には“無い”と思われるものを、“在る”と信じ、それがあたかもあるかのようにして生きることです。神様は目で見えなくても、手で触れることができなくても、たとえその存在を否定したとしても、どのような人の中にも、確実に共に生きて働いておられます。そして、クリスマスは、その存在が明らかにされた日です。
「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」(ルカ2章11節)