心のオアシス

心のオアシス 2018年10月21日

 私たちの教会が支援している中に、ニューヨークの貧民街で伝道をしているメトロ・ミニストリーズという団体がある。今年8歳になるフィリピンのルーセル・パディオス君は、ここを通してサポートしている。  
 団体のリーダーのビル・ウィルソン先生は、毎週2万人以上の子供たちが集まる世界最大の日曜学校を行なっています。先生は、子どもの頃、母親に置き去りにされました。シングルマザーであった母親が、「もうダメだわ、やっていくことはできない・・・」そういって、通りの消火栓の前で「ここで待っていなさい」と言い残したまま姿を消しました。彼は、その消火栓に座ったまま3日間待ち続けました。しかし、母親は帰ってきませんでした。3日目にクリスチャンの男性が、消火栓にずっと座っている少年を見つけて家に連れ帰り、食べ物を与え、クリスチャンの子どもキャンプへ参加させました。そこには各地からたくさんの子どもたちが集まっていました。慣れない場所に来たビル少年は、隅の方に座っていました。その夜の集会で牧師が話し終わり、最後に招きがありました。「もしイエス・キリストを信じたいなら前に出てきてください」 ビル少年は、聖書の話は初めてだったのですが、何か引き付けるものがあって前に進み出ました。決心した子どもたちが集まると、カウンセラーが出てきて、一人一人の子どもたちの所へ行き、一緒に話したりお祈りをしたりし始めました。しかし、母親に置き去りにされた時の汚い服、やぶれたズボンを履いたビル少年のところには、誰も来てくれなかったのです。ビル少年は、一人でこう祈りました。「神さま。僕を導いてください。」その時、カウンセラーは来てくれませんでしたが、イエス様が来てくださいました。大きな恵みの衝撃を受け、神さまの愛で包まれました。そして今現在、誰もできないような大きな働きをしておられます。  
 先生はミニストリーの長になっても、未だにスクールバスを運転しています。彼はこう言います。「捨てられた僕を拾ってくれた人がいます。そして今日があるのです。僕は、あの捨てられた自分を思い出しながら子どもたちを拾い上げています。」私も同じ気持ちで福音を伝えています。

心のオアシス 2018年10月14日

 19世紀、プロイセン王フリードリヒ2世は、聖書の真理性についてチャプレンと討論しました。当時の王は、フランスの理神論者ヴォルテールの影響を受け、聖書を信じずに疑っていました。「あなたの聖書が本当に神から来たものか、その証拠を簡単に説明してみよ。」王の質問に、チャプレンはこのように答えました。「一言で申し上げることができます。イスラエルです。」チャプレンの答えに、王は沈黙しました。チャプレンは、数え切れないほどの苦しみと迫害を受けたイスラエルが今も存在するという詩篇129篇「今イスラエルは言え、『彼らはわたしの若い時から、ひどくわたしを悩ました。しかしわたしに勝つことができなかった。』」のみことばを証拠としてあげたのです。神さまの助けと守りと導き以外に、イスラエルの存在を説明できるものはありません。
 イスラエルは、民族が初めて形成された「若いころ」(詩129:1)に、エジプトから激しい迫害を受けました。イスラエルの数が増え続けると、エジプトの王パロはイスラエルに男の子が生まれたら殺すよう命令しました。このような、虐政の下でモーセが生まれました。イスラエルは士師の時代にも、ペリシア、アッシリヤ、モアブ、アモン、エドムなどに囲まれ、脅威にさらされていました。民族も南北に分裂し、北イスラエル王国は、シリヤ軍隊の侵略と圧迫を受け続け、後にアッシリヤによって滅ぼされました。南ユダ王国は、バビロンによって滅ぼされ、その後にもユダヤ人は、ギリシヤとローマ、中世紀にはヨーロッパ、20世紀にはナチスの激しい迫害を受けました。歴史を知る人は、イスラエルがどの時代においても、どれほど迫害されてきたかをご存知でしょう。しかし、敵はイスラエルに勝利することができませんでした。神がイスラエルと結ばれた契約を守られたからなのです。この国だけは、これからも絶対に滅ぼし尽くすことはできません。神の約束があるからです。
 しかし、イスラエルが滅ばされないのは、「イスラエルを通して、すべての国民が祝福されるため」(創26:4)なのです。私たちも、神さまとの平和条約を結んでいるならば、苦難や試練を恐れる必要はありません。

心のオアシス 2018年10月7日

 私は最近、一つの悟りが与えられ、他者に対してより一層寛容になることができるようになった。今までは、成長を願う一心もあったが、自分ができることは、他者もできるはずと思い、自分の拘わり通りに物事が動かないと、ストレスになることが多かった。しかし神さまは、ご自分が造られたすべての物を見たところ「はなはだ良かった」と言われました。最初は、「はなはだ良かった」ところからのスタートだったのです。これは100点満点中、1000点からの出発だと考えることができるように思いました。だからこそ、神さまは罪に落ちた人間を、そして何度も神さまを裏切るイスラエルの民を赦し愛し続けることができたのではないかと思う。もし100点からのスタートならば、いつも減点ばかりの私たちに対して、満点でない腹立たしさが起こるでしょう。例えば、親は子に100点であって欲しいと願います。でも50点や60点しかできなければ、足りない部分を見て責めることになります。でも、千点からのスタートならば、少々足りない部分があっても満点以上の存在なのです。その存在だけで、生かされているだけで満点だと考えるようになったら、感謝が溢れるようになりました。
 もう一つ、他者に寛容になれる秘訣は、自分がどれほど罪深い存在であるかを自覚するということです。サムエル記の学びをしながら感じたことは、ダビデは、自分の部下に裏切られても、息子のアブサロムが反逆した時も、シメイがのろいながら石やチリを投げつけてきた時も、寛容であり続けることができました。それは、今、自分がそのような状況になっているのは、他者が悪いのではなく、すべては自分の“罪”のせいだと考えていたからです。故に今生かされているのは、ただ神の恵みだとダビデは考えていました。これはダビデの言葉です。「彼がのろうのは、主が彼に『ダビデをのろえ』と言われたからであるならば、だれが、『あなたはどうしてこういうことをするのか』と言ってよいであろうか・・・彼を許してのろわせておきなさい。主が彼に命じられたのだ。主はわたしの悩みを顧みてくださるかもしれない。」(サムエル記下16章10~12節)  

心のオアシス 2018年9月30日

 あるベトナムの村に、宣教師たちの運営する孤児院がありました。しかし、その村は爆撃を受けました。その爆撃で8歳の女の子は最も重症で、大量出血によって危険な状態になりました。しばらくしてアメリカ海軍の医者と看護婦が到着しました。すぐに輸血が必要でした。言葉が通じないため、ジェスチャーを使って子供達を集め、何がおきていたのかを説明し、血液を提供する人が必要であることを伝えようとしました。沈黙の時間がしばらく続いた後、一人の細い腕が恐る恐るあがりました。ヘングという名の少年でした。急いで少年の準備をすると、苦しむ少女の隣に寝かせ、輸血ようの管をとりつけました。少年は黙ったまま天井をじっと見つめていました。しばらくすると、少年は自由になっている手で顔を覆うと、しゃくりあげるように泣いているのでした。医師が「どこか痛いのか?」と尋ねると、そうではないようでした。しかし、しばらくするとまた、しゃくりあげ、今度は大粒の涙をこぼしていました。医師は気になり、再び尋ねましたが、またもや彼は否定しました。ときどきしゃくりあげていたのが、やがて静かに泣き出しました。しばらくして別の村からベトナム人の看護婦が現れましたので、医師はその看護婦に、ヘングに何が起きたのか尋ねてくれるように頼みました。すると少年の苦しそうな表情はゆるみ、しばらくすると彼の顔は再び平静を取り戻しました。すると看護婦は、アメリカ人の医師達に説明しました。「彼はもう自分が死ぬのかと思っていたんです。あなた達が説明したことを理解しておらず、少女を助けるため、全ての 血液を提供しなければいけないと思ったようです。」すると医師はベトナム人看護婦の助けを借り、少年にきいてみました。「そうであれば、どうしてあなたは血液を提供しようと決心したんですか。」すると少年は単純に応えました。「あの子は、ぼくの友達なんです。」
 イエスさまは、滅びに向かう私たちのために、十字架にかかり、私たちの罪の身代わりに死んでくださいました。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)

心のオアシス 2018年9月23日

 「世界は誰かの仕事でできている」とは、某コーヒーのキャッチコピーですが、多くの人の心に響いているようです。このコピーに関する書き込みを見つけました・・・「このポスターを、初めて見たとき、心が震えました。4月に転勤し、通勤に片道2時間を要し、仕事もきつく、毎日雑巾のようにボロボロで、このままではどうにかなってしまうのではないかと思っていました。しかし、このポスターを見て、私だけでない。誰かが、誰かのために一生懸命仕事をしているんだということに改めて気づき、心が救われました。『世界は誰かの仕事でできている。』という言葉を噛みしめて生きています。」
 実は私もこのコーヒーのCMを見るたびに、自分の周りに囲まれている物を見ながら、「どれほどの人たちが、関わってきたことだろうか?」と思い、感謝の気持ちが沸いてくる。直接的ではなくとも、間接的でも関わっている人たちのことを考えると、どれだけ多くの人たちの汗と涙によって私たちの生活が支えられているか測り知れません。
 私たちは大きなことをしたいと願いますが、大きなことをすることだけが価値があって重要なことではありません。結局、私たちは、大小問わず、名も知れない誰かの仕事によって支えられているということなのです。教会も現実的な奉仕によって支えられていますが、目に見えない、一人の小さな祈りによっても支えられていることを忘れてはならない。
 マザー・テレサがノーベル平和賞を受賞された時に、人々が言いました。「なぜ、あなたのように有名な人が、インドの貧困をなくし、世界平和のために声を上げないのですか?」それに対するマザーの答えは、「私には、偉大なことはできません。私にできることは、小さなことに、大きな愛を込めることなのです。」ある意味、これが私の理想の姿であり、ビジョンなのです。私が献身した時に祈った祈りは、「主よ、私は小さく、福音は大きく広げられていきますように。そしてあなたの計画を進める道具として、あなたを乗せる子ロバとして使ってください。」世界は誰かの仕事でできていて、すべての仕事を支えているのは主なる神なのです。